陳澄波とその《自画像》

                                             曹 永洋    原作

                                                            呉 昭新 日本語訳

いつも台湾タイペイの中正記念館(廟)のそばを通るとき,自然と目に入る壮大な建築を仰ぎ見るたびごとに胸を引き裂かれる様な思いをする,なんとそれは一世一代の大独裁者を奉る建築物なのだ。228事件で犠牲になったあまたの台湾のエリート、学生と善良な罪なき人々たちのことを思うと無尽の悲憤と空しさが心の内からこみ上がって来る。台湾の第一世代の傑出画家陳澄波(18951947)も又当時命を失った三万人近い犠牲者の一人なのだ。

古今内外を問わず,画家はよく自画像を以って自己を分析するケースが多い,その中で最も有名なのは当然セザンヌとゴッホを推すべきだ。陳澄波のこの自画像は三十三歳の歳に完成したもので,この年東京美術学校師範科を卒業した彼は,再び同校の西洋画研究科に入学二年間在籍した。自画像で真っ先に目に付くのは,彼の炯炯と光る両眼,好奇に満ちて世間を静観しているその眼(まなこ),而立の歳を過ぎてまだ僅か三年ばかりの若き画家の顔には英気勃々たる自信に満ちた,又芸術家が人生探索と内心自省せんとする表情そのものが明らかに顕われている。

陳澄波は1895年嘉義に生まれ,この世に生をうけると同じうして慈母を失い,それ故祖母の手一つで育てられた,彼のあの親の愛情に溢れる作品«祖母像»もまた彼の傑作の一つである。

十九歳にして台湾総督府国語学校師範科合格入学後,石川欽一郎に直々師事し,その指導を受け西洋美術に対して初歩の認識を修得した。その後日本に学び,美術専攻の道を続け,32歳にして作品《嘉義街の外》が第七回帝展に入選した,当時彼はまだ東京美術学校三年生に在学中だった,これまた台湾人にして油絵で帝展に入選した第一人者だった。

1945年第二次世界大戦終戦後,陳澄波は故郷に帰り,まもなく嘉義市の第一回の参議員に就任したが,僅か二年の陳儀の統治は台湾を歴史的大惨事に至らしめた。228事件発生後一ヶ月足らずの三月二十五日,陳氏は横暴なる国民党の軍隊に繰り縛られて車で市内引き回された後,公然と嘉義駅前で銃殺された。父の惨死を目の当りにした当時二十三歳の陳氏の長女陳碧女女史(陳氏五人の子供の中只一人父より絵画を教わった)はその後再び画筆を手にすることは無かった。そのとき台湾はその絵画史上同時に二人の画家を失ったのだ,と同時に又絵画史上傑作になりうる可能性のある多くの画作を残すチャンスも失ってしまったことになる。

二十世紀に於ける又一人の独裁者毛沢東曰く:『魯迅の骨は硬いと』。私は其の言葉に懐疑的である,何故ならば,若し魯迅が1936年に死去していなければ,彼は果たして王実味、呉晗、老舎らと同じ運命を辿らないで済んだだろうかと?

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