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私がロシアで見た景観の中でレフ‧トルストイ(1828~1910)の墓ほど偉大また人の心をして感動させたものはない。この後人をして自ずから畏敬を以って参拝する荘厳なる聖地は騒擾から遠くはなれた木蔭の下にある。 一本の羊腸小径に沿ってゆっくり歩み行き、潅木の群と空き地をぬけるとお墓の前に来る、それは見たところ只の長方形の土丘に過ぎず、警護する人も世話する人も無く、只数本の鬱蒼とした大木の樹陰に守られているのみ。 トルストイ翁の孫娘が私に言うに、これら高く真っ直ぐ聳え立ち初秋の微風に揺れる樹木はトルストイ翁が自ら植えたものだと。 .....(詳見全文)
去り行く時の流れ、声無く、音もなし、されど君が残した念願事業は世人 の心の中に深く刻まれている。 41歳にして、妻陳連年女士とともに、君は視力障害者のために故郷羅東に於いて「慕光盲人リハビリセンター」を創立した。愛をもってつけられた蝋燭の火のきらめきはカマランの夜空にずっと凍りついたまま、冷たい社会と闇の角に暖かい慰めと希望をもたらし続けている。 君が天国に住むこと既に十年、「慕光」は毎年新しい学生をむかへ、そこでリハビリを終へて、再び社会へ戻り、新しい人生の旅路に歩み出しています、どうかご安心下さい。 .....(詳見全文)
当時大学受験を受けたとき、何も考えずに経済学を志願し合格入学した、そして二年の月日が過ぎた、微積分は不合格だったが、何とか追試験で無事通過した、しかし会計学は見事落第、もう少しの所で校門から追い出されるところだった。このとき私は初めて気づいた、若しこのままずるずるべったり過ごしていったならば只山の麓にとどまって居るだけで、もうそれ以上は登って行けなくなると。 その後、中国文学専攻に転学した。校門を出ると直ぐ義務兵役で野戦部隊に回され一年間小隊長を務め、退役後仕事を探している時初めて教師になることが私の唯一の道である事を知った。 .....(詳見全文)
許武勇(1920~)は当代に於ける画家のなかで伝奇的人物とも言うべき人物である。この医者と画家の二役を演じる怪傑はかって塩月桃甫に師事したが、其の画風は師匠とはまったく違っている。優れた天資に恵まれた彼は学業に於いても他人より抜きん出ていて、挫折することもなかった。東京帝大医学士とカリフオルニヤ大学公共衛生修士の二つの輝かしい学位を持つ彼は、優れた内科開業医の他に最も人をして感嘆させたのは彼がまた想像力と創造力に満ちた傑出した画家であることである。過ぎたる五十余年このかた一日たりと芸術の創作を忘れることはなかった。かれの作品には、彼の異なる各人生階段におけるそれぞれ違う感受が表現されている。一筆一筆の中にはっきりと彼の郷土の土、情緒、人間にぴったりとひっついた脈動をはっきりと聞き取ることができる。 アトリエは診察室の二階にあり、絵を描くとき彼は筆を使わず,もっぱら画刀を使った。両手に手袋をはめ、患者が来ると直ぐに手袋を脱いで医者の役割に変わる。 .....(詳見全文)
1992年、王昶雄さんが主宰する「益壯会」で画家鄭世璠(1915~2006)氏と知り合った。彼は私が以前知り合っていた画家とはまったく違っていた。芸術上の練磨と堅持以外に、彼には一般画家の孤高奇癖がなかった。 鄭氏の個性は楽天ユーモアで、自己紹介の時も、よく本名の同音にもじったあだなで自分をからかった、例えば、彼の名前を中国発音で読めば「正しく蕃人である」「星帆」「生蕃」「性の伴」等に通じると。又画室も日本名で「ガラクタ斎」と名づけた、又自宅の庭園をさえも日本語で「出鱈目園」と呼んだ。だが、この様な誰もが自由自在気楽に交際できる芸術家(私が並みの個性を持つ芸術家は二流または三流の絵描きに過ぎないと思っていたのは、大きな間違いだった)の作品は只の一点も並みのものはなかった。 .....(詳見全文)
かってどれだけの傑出した画家が彼らの画筆で自分の愛する故郷を描いただろうか私にはわからない。しかし淡水観音山が当然文士墨客、芸術家が捕捉せんと渇望する歴史場面の対象の一つであるのには間違いない。 郭柏川(1901~1974)は台湾当代大家クラスの画家の一人である。彼はこの作品に於いて単純且完璧なる構図と線を以って描き出された碧天白雲、鬱蒼な樹影の下の農家、尖った屋根の淡水教会堂、明媚な観音山、悠然と流れる淡水川の郷愁に満ち満ちた田園の美しい風景を我々に見せてくれたのだ .....(詳見全文)
浅井忠(1856-1907)日本画壇有数の大家の一人である。安政三年江戸(東京旧称)に生まれ、青年時代には軍人として中国東北にて、日清戦争を体験していた、故に早期の画作には多くの清末の東北に於ける戦争の場面の画作を残している。《台湾文学評論》の表紙絵物語ですでに紹介した台湾の美術教育につくした石川欽一郎もその門下生の一人である。 .....(詳見全文)
画家張義雄は既に九十三歳になる。彼、常に赤子の心を失わない芸術家は、十歳の時台湾嘉義市の中央噴水池の傍にて一心にスケッチに専念している陳澄波氏を初めてみた、この時この少年の心の中に画家になろうと言う意欲が芽生えたのだ。この時より、彼はギター、魔法の道具、心愛する小さな動物達を連れて天涯さすらいの旅に出かけた。台湾、日本、中国そしてフランスの国々は彼がその芸術作品を残した重要な拠点である。 .....(詳見全文)
私は蘇孟竜医師に伴われて新竹を半日歩き回った事を永久に忘れられない、ことさら初めて李澤藩教授の原作《南寮》を見たときの事は忘れようにも忘れられない。そして再び李澤藩美術館にて李氏の原作《孔子廟》、《潜園》、《淡水》、《山麓霧深》、《客雅渓畔》、《外媽祖宮廟前》、《西門教堂附近》、《東門城》、《口琴橋》を見た時‧‧‧‧‧どの一枚の作品も皆故郷の情溢れる傑作其のものであり、人をしてしばし佇み、去るに忍びなかった。 .....(詳見全文)
十九世紀も終わりに近いある年のことである。アメリカのコーネル大学で有名な実験がありました。この実験グループのメンバー達は事前充分且つ綿密な計画と準備をしていました。彼らは一匹の蛙をいきなり煮えたぎる湯の釜のなかに放り込んだのです。この一匹の機敏なる蛙は間一髪の生死の間際に、あっと言う間にとっさに全力を尽くして、釜のそとの床の上に跳び出し、無事に逃げ終えたのです。 半時間後、彼らは又同じ大きさの釜を使って、今度は釜の中に八分まで冷水を入れ、そして先ほど九死に一生から逃れたばかりの蛙を又釜の中に入れました。今度は、蛙は悠然と釜の水の中で泳ぎまわっていました。それから、実験グループのメンバーは、こっそりと釜の下に炭火を入れ、ゆっくり釜の中の水を熱くしていきました。蛙は、何も知らずにまだ悠然となまぬるい、しかし水温が知らぬうちにゆっくりとあがりつつある水のなかで泳ぎ回っていたのです、そして、蛙が釜の中の水温がもう我慢が出来なくなったと気づき、一身の力を込めて跳び出さなくてはならないと思ったその時は、もう遅かった、跳ぶにももう力はなく、只釜のなかで死んでゆくのみでした .....(詳見全文)
いつも台湾タイペイの中正記念館(廟)のそばを通るとき,自然と目に入る壮大な建築を仰ぎ見るたびごとに胸を引き裂かれる様な思いをする,なんとそれは一世一代の大独裁者を奉る建築物なのだ。228事件で犠牲になったあまたの台湾のエリート、学生と善良な罪なき人々たちのことを思うと無尽の悲憤と空しさが心の内からこみ上がって来る。台湾の第一世代の傑出画家陳澄波(1893~1947)も又当時命を失った三万人近い犠牲者の一人なのだ。 古今内外を問わず,画家はよく自画像を以って自己を分析するケースが多い,その中で最も有名なのは当然セザンヌとゴッホを推すべきだ。陳澄波のこの自画像は三十三歳の歳に完成したもので,この年東京美術学校師範科を卒業した彼は,再び同校の西洋画研究科に入学二年間在籍した。自画像で真っ先に目に付くのは,彼の炯炯と光る両眼,好奇に満ちて世間を静観しているその眼(まなこ),而立の歳を過ぎてまだ僅か三年ばかりの若き画家の顔には英気勃々たる自信に満ちた,又芸術家が人生探索と内心自省せんとする表情そのものが明らかに顕われている。 .....(詳見全文)