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![]() ウエブマスター“老医”特別医学貢献奨個人奨受賞 (1999)-(国家生物技術及び医療保険委員会) |
植民地文化学会 2008年7月13日
はじめに
植民地時代の台湾では、台湾の人々は日本語教育を強いられた。彼ら日本語世代の一部は、日本語についての高度修養を得て、文学的営為として自分の感情を俳句によって表現するほどにまでなる。ところが、戦後、国民党政府の戒厳令の下で、結社どころか、日本語の使用が禁止された。統治者の権力交代によって発生した不条理は、台湾の日本語世代に日常生活の日本語使用を余儀なく放棄させた。そのなかで、台北俳句会は、一九七〇年七月創設から今日まで活動してきた。中国語や台湾語が飛び交う台北の街で、彼らは日本語で同人と挨拶を交わし、日本語で俳句を作り、日本語で俳句を吟味し討論した。台湾では異質な日本語の空間を保ってきたのである。それでは、彼らが愛着を感じ、長年実現してきた台湾の日本語文芸とは、いったいどのようなものであろうか。
本発表は、今後の台湾俳句の研究に資するべく、台北俳句会の俳句を同人構成や句作の類型から探ることによって、台湾で作句される日本語俳句の特徴を明らかにしようとするものである。
1 台北俳句会について
1-1 台湾における日本語文芸
台北俳句会の研究は未だ少ない。[1]一九九四年に短歌の『台湾万葉集』が出版された後、[2]日本語で和歌や俳句を創作する台湾人の存在が注目を引き始めた。たとえば、大久保明男氏は、『台湾万葉集』の短歌から「精神的な傷の深さ」を読み、「『台湾万葉集』の重みと可能性」という論説を発表した。
特殊な歴史背景を背負わされた『台湾万葉集』は当然ながら、優雅で、おしとやな花鳥諷詠ではありえなかった。繊細巧緻を極めたものもなかにはあるが、大多数は単刀直入型の叙情と描写を特徴とする素朴な短歌である。政治や社会に対する鋭い観察と辛辣な批判、また、歴史や自身の運命に対する感嘆と自嘲、あきらめ、諧謔などが率直にこれらの短歌で語られている。そのなかでも目立つのがいわゆるアイデンティティの苦悩を訴えるものである。[3]
一方、黄智慧氏は、同人は短歌と川柳の作品に諷刺やユーモアで「悲哀」の気持ちを託しているという。つまり、解放後の台湾では、国民党政府を「宗主国」として見なし、表現の自由が奪われたことへの反発が形になったと解釈する。[4]
その指摘を受けた磯田一雄氏は、台湾における「俳句」は台湾における「短歌」「川柳」とは異なる性質を持っていると主張した。さらに、「台湾的なもの」の創出によって、ノスタルジアの域を超えるものがあると指摘し、主として主宰黄霊芝氏の俳句理念と句評に基づいて論じている。[5]なお、国際交流俳句から派生した「湾俳」(中国語による俳句創作)についても研究されつつあるが[6]、台北俳句会の句作を研究対象にする研究は未だない。
1-2 俳句会の沿革
台北俳句会の創設は一九七〇年七月である。主宰の黄霊芝氏は「台北歌壇」(のち「台湾歌壇」に改名)のメンバーであり、歌壇の活動で一九七〇年の六月、台湾でのアジア・ペンクラブ会議に参加した川端康成、中河與一、五島茂、東早苗など、日本の文芸家と会った。台南へ案内することになって、「汽車の中で台湾にも俳句の会が欲しいという話が湧き、帰北のあと俳句の運座をした。これが台北俳句会の発足のはじめである」[7]という。
周知のように、当時の台湾は国民党政府の戒厳令の下で、結社どころか、日本語に関する資料の流通さえも禁止されていた。それにもかかわらず、黄氏は台湾で日本語の俳句会を創設した。
当時の状況の厳しさは、俳句会の命名からも一端が伺える。メンバーは台北だけではなく、台中、台南にも多く、全島に及ぶのに、どうして「台北俳句会」と名乗ったのか。このことについて、主宰の黄霊芝氏は、「実質的には会員が全島に跨り、『台湾俳句会』であるべきだったが、当時「台湾」の二字には反国思想の嫌疑が実しやかにかけられやすかったため、殊更にこれを避けたのであった」と説明している。[8]
1-3 句会の進行方式
台北俳句会は毎月の第二日曜日に、台北市にて開く。創設以来、終始黄霊芝氏の手書きプリントを資料として進められている。進行方法は各俳句会とおおよそ一致する。同人は、プリントに書かれた季語の解説を参考にして、自作三~五句を句会五日前までに黄霊芝氏へ送る。黄氏は同人の句を匿名でまとめる。そして俳句会の当日正午頃、同人は資料と選票をもらい、食事をしながら五句を選句する。
食事が済んだ午後一時頃、同人の陳錫恭氏が同人の選句を読み上げ、作者は名乗り出る。同人は、それぞれの句について、用語と文法が正しいかどうか、季語が重なっていないか、写生の俳句かどうか、抽象すぎることはないか、発想の新鮮さなどについて、自由に意見を述べ鑑賞する。その後、黄氏が名前入りの俳句リスト及び句評を配布する。句会後は、編集者が当日の選句の結果、主宰の句評、そして互選一覧表を届ける。
1-4 台北俳句会の特徴
同人の平均年齢が高いのも、この句会のなによりの特徴である。「台湾生まれの台湾人、台湾生まれの日本人、日本生まれの日本人、日本生まれの台湾人、外国に住む人」などを含め、まさにアジア近代史を語る集まりである。時局と環境の制限で、大きく宣伝することもできなく、主として会員が知友を紹介するにとどまったといっても、最盛期の一九九〇年前後は同人が百人近くいたという。[9]
主宰の黄霊芝氏自身が台北俳句会の構成の特徴について以下のように述べている。
台北俳句会には幾つかの特徴がある。
(1)よき主宰に恵まれなかった。ために大根が小根に果てたのでは? という恐れ。
(2)人員構成としては台湾生まれの台湾人、台湾生まれの日本人、日本生まれの日本人、日本生まれの台湾人、外国に住む人をも含め、一国際的団欒の場であり舞台は複雑。
(3)参加の動機は、若き日への郷愁。日本語しか喋れないもの。だってAさんに誘われたから。何やらの文芸的憧れ。有耶無耶のうちに。または眠気覚ましに。
(4)日本の場合だと自分の気質に合った俳句社を選んで身を寄せることができるが、台湾での俳句会は一応ここしかなかったから、結社というよりはグループである。いわば一つの花壇に薔薇、百合、シネラリア…その他が雑居する。そしてそれぞれがそれぞれの花を精いっぱい咲かせるのが目標。薔薇には薔薇の仏があり百合には百合の仏がある。それを引っくるめての園芸を諾う度量と礼。
(5)半数以上の人が短歌をも嗜み、小説や自由詩…を捌く人もいる。だてお午は和食、夕食はビフテキにしましょうね、ということもごく当たり前のことじゃないですか。そんな主張と認可(これは先に述べた文芸の完璧さを求めての各種言語の使い分けへの一具体例として、その主張は天下を闊歩できるはずだ。たとえばこの主題は短歌に適し、こちとらは俳句に適する、という場合、それを使いわけてこそ完璧は完了しよう。やみくもに相撲を謳歌しても柔道はべつに困らない。だから昼は刺身、夜は牛)。
(6)師は多いほどよろしい、という勧め。但し師の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分の胃で消化すること。でないと自分の血と肉にならない。その存念と態度への歩み寄り。
(7)ち得ないだろう、いわば亡びを前提とした会である。空前絶後かも知れず、または生まれ変わっての一曲が奏でられるまでの老人の無口がちな日向ぼこに過ぎないのかもしれない、そんな会。[10]
(1)は、黄氏の謙虚なことばである。(2)と(3)は同人構成が複雑であることと、同人の俳句会参加の動機は様々であることの説明である。(4)は、台湾での俳句会が事実上「台北俳句会」しかなかったこと、それゆえに同人それぞれの理念が異なっても、逆に包容力あるものとなったこと。「それぞれがそれぞれの花を精一杯咲かせるのが目標」であるという。(5)は、俳句会の同人は、同時に短歌や川柳をもたしなんでいる人が多いこと。半数以上の人が短歌も嗜み、小説や自由詩を執筆する人もいる。(6)「師は多いほどよろしい」という考えから、日本の他の俳句社への加入を自由に許されていることである。
そして(7)が、台北俳句会の構造上の最大の特徴であろう。黄霊芝氏は、別の場で「日本の文芸とも台湾の文芸とも認められず、消えていくばかりだ」[11]との感慨を述べている。「百単位からゼロへ」と歩む俳句会は、多大な諦観を抱いて俳句を詠んでいるとも想像できる。高齢化による会員数の減少で、現在では句会参加者はおおよそ二十人前後になっている。機関誌『台北俳句集』(年刊)の第一集に投句した同人二十五人のうち、三十七年後の今も投句を続けているのは四人だけである。すなわち主宰の黄氏、北条千鶴子氏、施碧霞氏、張清瑛(白圭)氏の四人である。なかには、健在であるものの、高齢化のゆえに句会から離れた同人もいる(たとえば一九一三年生まれの文学者巫永福氏)。このため、句集の分析では参加同人の異動に注意を払う必要がある。
2 句作の特徴
台北俳句会の句作を、詠み手の高齢者としての述懐や歴史、生活、そして言語の面から見ていく。
2-1 高齢者としての述懐
若い後継者がいないという、大きな構造的特徴を現すように、句作の中には自身の病苦と老衰とを詠む句が多い。近年では老境を読み出す句は少なくなる傾向が見られる。[12]しかしながら、このような句は、おそらく同人たちの多大な共鳴を得ていると考えられる。
草の実を捥いで嗅ぎみる老い二人 (呉建堂 1973)
病魔汝も供に連れ来て初句会 (陳秋蟾 1989)
老後とも朝冷の肌さすりゐる (陳秋蟾 1989)
炎の向かふに余生見えて来し (尤騰烈 1989)
託老所の話こじれし残暑かな (北条千鶴子 1989)
はやり風邪老骨よけて通りけり(何奶貞 1989)
現住所養老院とあり寒北斗 (江凌雪 1992)
癌と知りじっと見つむる春の虹 (厳慶烈 1989)
漬け茄子の紫紺変わらず人の老ゆ (北条千鶴子 1993)
なお、「古稀」や自分の年齢などは、自身の老境を詠み出すときに台北俳句会同人が愛用する用語である。
古稀の坂に一歩踏み入り去年今年(江苑連 1989)
古稀翁の矢立てのはじめ初句会(呉寿坤 1993)
日傘さし古稀の急ぎ足登校(江苑連 1994)
蛙捕りし昔を偲ぶ古稀のわれ (文錫“火堅” 1994)
幾山河越え来て古稀の墓参り (文錫“火堅” 1994)
古稀の身を浸す菖蒲湯雲流れ (張清瑛 1994)
ひるぎ見に古稀が連れ立つ日和かな(陳宝玉 1994)
古稀古稀とひと足先に忘年会 (徐静英 1994)
高齢者の生活の中で大きな比重を占めている孫の姿も、よく俳句に顔を出している。たとえば、「春眠の孫の笑顔に起こしかね」(江苑蓮 1989)。「入学の孫の落書きピカソ流」(張清瑛 1994)。
友の訃はしばしば作句の題材とされ、また句会資料にも会員の訃報が時折掲載される。これらの句を詠む同人の寂しさは、読者の心を動かすものがある。台北俳句会の注目すべき点である。
木の葉髪友の訃報の又一つ (呉建堂 1973)
友の訃に心重たき小正月 (河口七五三江 1974)
冬ごもり若き歌友の訃に胸疼し (陳金定 1974)
月夜詠める去年の歌よし人は亡し(呉建堂 1975)
友の訃や一枚へりし年賀状 (王義雄 1976)
絶症と知らぬ友の手あたたかく (顔碧仙 1977)
よき敵に一人残らず年賀状 (董昭輝 1993)
かくれんぼやめて出てきよ夏の蝶(邱秀琴氏を悼む)(陳蘭美 1994)
知己の訃の聖夜の家に届きけり (文錫“火堅” 2005)
家族や友人、特に句会の仲間の死に直面したことによって詠まれた句は、悲しみを感じるとともに、同人によれば、自分の末期もいつか来るという心構えも言外に潜ませているとのことである。このような句は、初期の句集から近年の句集にいたるまで普遍的に見られる。
2-2 歴史性
『台北俳句集』をひもとく際に目立つのは、日本時代への郷愁、台湾社会の歩みへの述懐の句である。俳句会の同人がそれぞれの歴史的背景を持っているが、「日本人」だった青春時代、あるいは戦争を題材に句を詠む同人がいることに注目したい。以下、戒厳令解除の翌年に詠まれた句集(一九八九年度)から例を挙げる。
カラオケで先に歌ふは赤とんぼ (張秀桃 1989)
防空壕や今時こんなに昭和草 (江凌雪 1989)
恩師とはかくて異籍や昭和草 (江凌雪 1989)
昭和草や胃の腑だぶつく飢餓の日々(江凌雪 1989)
あぢさゐや教育召集の紙黄色 (范姜梢 1989)
旧台湾総督府官舎囀れる (頼天河 1989)
さらに、日本の敗戦により植民地時代が終止符を打たれたにもかかわらず、日本のことを「故国」、「祖国」のように詠んでいる句もいくつか見られる。
敗戦忌逝きにし友の面いくつ(厳慶烈 1989)
平成に年号変わる流れ雲 (陳福 1989)
パスポート持ちて故国の花見かな(范姜梢 1993)
佛桑華屋根も垣根も戦前派(陳玉璞 1999)
台湾の短歌は政治や社会についての描写がよく見られ、叙事性に富む傾向があるといわれている。[13]この点では、台湾の俳句も同じ傾向にある。例えば、台湾の総統選挙の結果について、自分の欣喜を詠んだ同人が多い。以下の句作は、二〇〇〇年三月末の総統選挙直後に行われた句会(同年四月九日)でのものである。
春泥道柳暗花明選挙戦 (陳玉璞 2000)
春一番選挙大事と車椅子(陳宝玉 2000)
めでたしや選挙勝ちて山笑ふ(劉富美 2000)
根こそぎに政党転移や春一番(高淑慎 2000)
政権の移転スムーズに春一番(徐奇芬 2000)
新総統生まれ玉山笑いけり(頼天河 2000)
四月句会の季語は春一番であったが、この季語を使って政治について詠んだ句もある。
春一番李登輝のお辞儀渦潜む(周月坡 2000)。
政治を題材とする句は、最初の『台北俳句集』第一集においては、一句もなかった。それはもちろん、戒厳令の下で政治を忌避しているからである。台湾社会の変遷は、まさに台北俳句会の同人に相当大きな影響を与えている。1947年の二二八事件は、日本統治時代からの台湾居住者である「本省人」が国民党政府の強圧的な統治に反発した事件であるが、この事件で多くの知識人が殺された。この事件を契機とする長期の「白色恐怖」(白色テロ)時代は、人々の記憶に深く刻まれ、今も詠まれ続けている。
籐椅子に倚りて遠くの戒厳令 (黄由起 1989)
老呆けて忘れむとする二二八ああ (宮古紫葉 1989)
二二八の悲しみはらむ二月かな (巫永福 1993)
夏草や白色恐怖の頃の塚 (巫永福 1993)
二二八碑あはく照らせり冬の月 (文錫“火堅” 1994)
碑文なき二二八記念碑に春陽 (蕭翔文 1994)
同人の話によると、「メーデー」あるいは「デモ」などですら、たとえ同人間の場であっても憚る雰囲気があったという。
このように、台湾近現代史の一部を綴る、歴史性に富む句作が多い。日本時代を懐かしく語る句も少なくない。先述したように、日本語世代のこの郷愁は国民党政府の支配体制に対する反発が募りながら生まれてきたものだと指摘されている。ただ、民主化が進展した現在では、このような句も少なくなっている。[14]
2-3 生活性
『台北俳句集』の特徴は、先の歴史性とともに、現実生活の身の回りの出来事、たとえば地震、台風などがよく読まれていることである。
地震はしり春たちまちに暁の空 (何千珠 1973)
九月颱舅父弔ふ楽とぎれとぎれ (陳金定 1974)
洗濯物山と積みたり九月颱 (張清瑛 1974)
台風の去りて残りし遭難碑(羅慶兆 2003)
SARSの眼ひと平等にマスクして(黄葉 2003)
この生活性が最も顕著なのは、一九九九年九月に起こった台湾大地震の直後の句会である。季題がちょうど「夜の長き」であったことも手伝い、大地震の不安と被災について数多く描かれている。
闇の中余震に怯え夜の長き(張継昭)
震災の消息を待つ夜長きかな(徐奇芬)
大地震の夜長縮めて揺れにけり(鄭清治)
長き夜や蝋燭尽きて余震なほ(北条千鶴子)
七転八倒震害の街月歪む(北条千鶴子)
汗しとど地震救助の各国隊(北条千鶴子)
震災のニュース続きて月の雨(藤原若菜)
長き夜や突貫工事のシャペル音(何欣欣)
本棚の紙魚の這ひ出る余震かな(頼天河)
シャワー浴びたしと被災の声暑し(黄葉)
大地震台湾襲ふ秋彼岸(林蘇綿)
大地震の駅前に寝る夜長かな(張“土宣”爐)
名月を涙で仰ぐ震災地(張“土宣”爐)
天地揺れ瞬時に地獄や夜中の秋(張“土宣”爐)
震災の瓦礫に青き月光り(周月坡)
秋霖や地震に埋もれし霊の声(徐静英)
地震の地にテントの夜は長からむ(陳錫恭)
秋刀魚焼く震災救助のコック隊(陳錫恭)
大地震生還祈る夜の長き(陳宝玉)
大地震救出祈る夜の長き(許秀梧)
特に最後の二句は、発想からも字面からも類似句である。ここで興味深いのは、同年度の自選句集(各人二○句)の中に地震に関する句を選んだ同人は、六十一人の中に僅か十人しかいないことである。これは、作句の発想の類似性に気づいて地震の句を排除した結果であろう。この点から考えれば、同人は自分の気持ちをあるがままに詠むばかりではなく、文芸作品としての質の面も十分に意識していると言えよう。
2-4 言語
司馬遼太郎氏は『台湾紀行』の中で、『台北俳句集』第二○集の句作を若干紹介した。頼天河氏の句「一家三代二国語光復節」(1990)を取り上げ、「台湾近代史がみごとに凝縮されている」と評した。そしてまた同じ頼氏の「大正生まれの運不運光復節」という一句から、日本語使いの俳人たちは台湾の「少数民族」であると述べた。[15]確かに、日本語しか話せない台湾人も存在し、他方で日本語への愛着の気持ちを込める句も見られる。
難しき知らぬ母国語(北京語)昭和草 (江凌雪 1989)
蕃薯簽(*注:サツマイモの千切り)食うて母国語不得手なり(陳宝玉 1994)
異国語で駄々こねる孫四月馬鹿 (廖運藩 1995)
五十年の日語解禁天高し (范姜梢 1994)
虫出でて日本訛りを言はれけり(黄由起 1994)
半世紀慣れし日本語灯下親し (頼天河 1994)
言語は、作句において何よりも重要な位置にある。かつて黄霊芝氏は、台湾社会の変遷の中での言語をめぐる状況について、次のように述べた。
台湾は日本に割譲され、日本語が台湾に上陸した。その日本語がほぼ満水位に達した五十年後の昭和二○年、日本の敗戦により台湾は中国に返還された。養父が破産したため養子を返したのに似る。そして今度は中国語が台湾に上陸してきた。大切なのはこの二つの時代において台湾語[16]は始終「国語」または「国語的」地位を持ち得なかったことだろう。[17]
『台北俳句集』第一集では、「民国六○年」、「梨山」などの台湾の風土が詠まれてはいるものの、特殊台湾的な季語は見られない。また、政治性を帯びる句も見られない。第一集は、いわゆる花鳥諷詠の句作集の範疇に入るものである。第二集には、日本では季語として用いられない「孔子祭」を季語として作句している句が見られるものの、台湾特有の季語は数少ない。第三集(一九七三年刊)からは台湾特有の季語が多く見られるようになり、この頃から台湾の季節、台湾の風土に沿って作句することが意識されるようになったと言える。台湾語の季語もまた、台湾語が終始抑圧された歴史への反動ゆえに、台北俳句会では頻繁に使用している。
このように台湾で作句するが故に、季語の問題が新たに生じる。黄霊芝氏は『台湾歳時記』を著して(二○○三年刊)、台湾の「季語」を次のように世に問うた
その実、『台湾歳時記』については何時か書かねばならない義務のようなものを、私は随分と前から心のどこかに端折っていた。戦前の日本領時代から受けついだ文芸の一ジャンルとしての俳句―日本文であれ中国文であれ―の文芸的または文化的意味合いを肯定するためにも、または二十数年にわたった、かなり困難な運営による台北俳句会およびそこで励んでこられた幾多の俳句詩人たちへの責任からも、いずれは書かねばならない一本ではあった。[18]
黄霊芝氏は、『台湾俳句歳時記』の季語は、台湾語の季語、あるいは台湾独特な風土や風俗にあえて限定している。しかし、台湾俳句会では、主宰の取り上げた季語の妥当性、日本の季語とのずれなどをめぐって議論になることもある。また、時には主宰の日本語用法に同人が反発することもある。「句評」紙上で「論争」になってしまうこともある。このような過程を経て、台湾で日本語俳句が作句されている。
台湾特有の季語の使用は、台北俳句会の俳句は、台湾の民俗性とつながることになった。これによって、台北俳句会は、台湾での台湾人による作句という自らの異質性を保ちつつ、後世に残りうる日本語文芸活動を生み出した。戦後台湾で創設された台北俳句会を牽引してきた黄霊芝氏の貢献は相当大きいものといえる。
おわりに
日本時代への追憶の句は、一九八七年前後までは、ほとんどなかった。ところが、一九八七年の第十九集以降は次第に多くなってくる。これは一九八七年に戒厳令が解除されたことと無関係ではない。戒厳令下でも同人は日本語で俳句を詠み続けたが、政治を題材とする句は公にはできなかったからである。
もっとも近年では、政治性の乏しい作句が多くなる傾向にある。俳句を一つの表現工具にする気持ちは、年月の推移につれて濾過されたと考えられる。同じ台湾の日本語文芸でも、台湾短歌会同人の「単刀直入型」の述懐に比べ、台北俳句会の同人は淡々と心境を詠み込んでいる。
置かれた境遇の相違があるものの、在日韓国人姜琪東氏に以下の俳句がある。
選挙権なし銀杏を踏み砕く
帰化せよと妻泣く夜の青葉木莬[19]
以上のような渾身の抗議の声が、台湾の俳句には聞こえない。姜氏は、「考えてみれば、韓国人の私が日本語で考え、話し、書くという行為は決して自然な姿ではない。だが、この不自然な姿こそが私の姿そのものであり、私の俳句なのである」[20]と述べる。確かに、日本語で俳句を詠む台湾人も、一種の「不自然な姿」といえるかもしれない。しかし、同人は自分のおかれた状況を、「枯野道台湾叟も五七五」(傅彩澄 1993)、「台北に俳句会あり躑躅咲く」(董昭輝 1994)に見られるように、いくぶん穏やかな心境で詠んでいる。彼らは、社会変遷への戸惑い、あるいは日本時代への愛着の気持ちをほのめかしつつも、現実の台湾を寫景し、「台湾的なもの」を題材とし、そして「俳句」を作り出している。その努力の背後には、俳句の普遍的な文芸性を追求する意志が伝わる。彼らにとって、俳句の創作とは「日本人に通ずるか否かは問題ではない。文学作品たり得るかどうかが問題」なのである[21]。
日本時代への懐かしさの詠まれた句は、一見すれば「親日」に思われがちである。だが、台北俳句会には国民党支持者も台湾独立支持者も集っている。時代の推移につれて「政治」を俳句に持ち込むことが減少し、日本時代への思いを詠んだ句も次第に少なくなっている。同人が目指すのは、俳句の文芸性を保つ作品を作ることにある。主宰の黄霊芝氏が「親日家ではありません」、「それでも私は親日本語なんです。つくづく繊細な言葉だと思う。そして自然と人とのかかわりを巧みな省略を使いながらたった17文字で表現する俳句の世界は、何年たっても究め尽くせない」[22]という言葉こそが、台北俳句会の同人の気持ちを十分に表している。
参考文献
台北俳句集編輯委員会編『台北俳句集』第1集(1971年)~第35集(2005年)
黄霊芝編著、『台湾俳句歳時記』言叢社、2003年
姜琪東『身世打鈴』石風社、1997年10月
司馬遼太郎『台湾紀行』朝日文芸文庫、1997年6月
大久保明男「〈台湾万葉集〉の重みと可能性」『朱夏』第十四号、2000年4月
磯田一雄「黄霊芝の俳句観と「台湾俳句」―台北俳句会における俳句指導(句評)を中心にー」 成城大学文学部紀要『成城文芸』第201号、2007年12月
磯田一雄「台湾における日本語文芸活動の過去・現在・未来―俳句を中心にその教育文化史的意義を点描する―」成城大学文学部紀要『成城文芸』第197号、2006年12月
* 本研究は2008年度財団法人交流協会専門家招聘活動補助を受けた。ここに感謝の意を改めて表明したい。
[1] 台北俳句会ないしは黄霊芝に関する先行研究は数少ない。ここでは以下を挙げる。磯田一雄「台湾における日本語文芸活動の過去・現在・未来―俳句を中心にその教育文化史的意義を点描する―」成城大学文学部紀要『成城文芸』第197号、2006年12月。磯田一雄「黄霊芝の俳句観と「台湾俳句」―台北俳句会における俳句指導(句評)を中心にー」成城大学文学部紀要『成城文芸』第201号、2007年12月。拙稿「黄靈芝俳句教室講義-談俳句的翻與不翻 、傳與不傳之間」『真理大學第十屆台灣文學家牛津獎暨黃靈芝文學國際學術研討會 論文集』(2006年11月)、および「中国語俳句における俳句記号の移植と変形」『南台応用日語学報』第七号(2007年11月)。
[2] 孤蓬萬里編著『台湾万葉集』集英社、1994年2月。
[3] 大久保明男「〈台湾万葉集〉の重みと可能性」『朱夏』第十四号、2000年4月、P65-67。
[4] 黄智慧「ポストコロニアル都市の悲情―台湾の日本語文芸活動について」の論文からまとめられたもの。『アジア都市文化学の可能性』、清文堂、2003年3月。
[5] 磯田一雄「台湾における日本語文芸活動の過去・現在・未来―俳句を中心にその教育文化史的意義を点描する―」成城大学文学部紀要『成城文芸』第197号、2006年12月P35-62。磯田一雄「黄霊芝の俳句観と「台湾俳句」―台北俳句会における俳句指導(句評)を中心にー」成城大学文学部紀要『成城文芸』第201号、2007年12月、P34-60。
[6] 拙稿「黄靈芝俳句教室講義-談俳句的翻與不翻 、傳與不傳之間」『真理大學第十屆台灣文學家牛津獎暨黃靈芝文學國際學術研討會 論文集』(2006年11月)、「中国語俳句における俳句記号の移植と変形」『南台応用日語学報』第七号(2007年11月)を参照されたい。
[7] 黄霊芝「台湾の俳句―その周辺ほか」『特集:俳句/世界のHAIKU―ことばを折りたたむ/響きと新しみ』、P91。
[8] 黄霊芝、「あとがき 戦後の台湾俳句―日本語と漢語での-」『台北俳句集』第25集、1998年12月、P148。
[9]「「非親日家」台湾人の俳句の会を主宰 魅せられた『17文字』」『朝日新聞』2007年2月1日。
[10] 黄霊芝、「あとがき 戦後の台湾俳句―日本語と漢語での-」『台北俳句集』第25集、1998年12月、P153-156。
[11]「「非親日家」台湾人の俳句の会を主宰 魅せられた『17文字』『朝日新聞』2007年2月1日。
[12] たとえば2004年度の『台北俳句集第三四号』は、五十六人の投句、一人二十句であわせて千百二十句の中に、自身の老いを詠んだのはただ三句のみである。「薫風や手に敬老の乗車券」(李錦上)、「精勤の老いの句会や残る菊」(呉佳君)「人の世に素直に向かふ今の老い」(高宝雪)。
[13] 大久保明男「〈台湾万葉集〉の重みと可能性」『朱夏』第十四号、2000年4月、P65。
[14] もっとも、蒋介石元総統を読む句も見られる。「総統の米寿ことほぎ菊大輪」(蕭秀紅 1974)、「総統訃に天定まらず四月盡」(何千珠 1975)、「初雷や蒋公の御霊空駆ける」(高橋郁子 1975)、「亡き元首心にきざみ双十節」(顔碧仙 1975)、「蒋公の昇天偲ぶ初の雷」高橋郁子 1984)
[15] 司馬遼太郎「南の俳人たち」『台湾紀行』朝日文芸文庫、1997年6月、P92-93。
[16] ここでの台湾語とは、いわゆるホーロー語のことである。
[17] 黄霊芝、「あとがき 戦後の台湾俳句―日本語と漢語での-」『台北俳句集』第25集、P156。
[18] 黄霊芝、あとがき「台湾歳時記と台湾俳句」『台湾俳句歳時記』言叢社、2003年4月、P300。
[19] 姜琪東『身世打鈴』石風社、1997年10月。
[20] 姜琪東「あとがき」『身世打鈴』石風社、1997年10月。
[21] 黄霊芝「はじめに」『台北俳句集』第4集、1975年1月。
[22] 「「非親日家」台湾人の俳句の会を主宰 魅せられた『17文字』『朝日新聞』2007年2月1日。