華語健康インフォメーション(台湾健康インフォメーションウエブ)-老医のホームシリーズ
(一九九六年三月創刊)
老医のホーム- Dr. 呉昭新の
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漢字/漢語俳句
―漢俳、湾俳、粵俳、......とは? ―
呉昭新 (オーボー真悟)(瞈望)
(by Obooshingo; Chiau-Shin Ngo, M.D. Ph.D.)
(Posted on Jul. 05, 2010)
ウエブマスター“老医”特別医学貢献奨個人奨受賞 (1999)-(国家生物技術及び医療保険委員会)
(感動し俳句知らずが俳句詠む)
世界の俳句とは世界中のいろいろな言葉で詠まれる俳句のことである。一外国人として俳句及び世界の俳句についての疑問は別文で述べさせて頂きました。しかしアルフアベットなどの表音文字で表記される西欧諸国の言葉で詠まれるHaikuが突き当たる壁や疑問とはまた違う別の問題が漢字文化圏内の言葉で俳句(広義の)を詠むとき出会いました。そこであらたな一文として私見を述べさせていただきます。
俳句の基本は十七音節で一章となる短い詩です。漢字文化圏では言葉の表記に同じ漢字を使いますが、言葉によって発音も意味も違うとともに、ここ六十年来同じ意味を表わす漢字の形(書き方)も違ってしまいました。
漢字の代表である中国の普通話を例に取ってみましょう。
まず俳句の一番基本になる音節に就いてみると、普通話では漢字一字は皆一音節ですが日本語では多音節になっています。たとえば中国普通話では「我」の字は一音節で「ウオー」と発音しますが、日本語では「ワレ」と二音節になります、その上普通話の「我」の意味は日本語では「私」の意味で、「ワタクシ」と四音節になります。そこで俳句で同じ意味の「私」を表現する場合、日本語の四音節は普通話では一音節だけですまされるので、日本語では十七音節の四分の一を使ってしまうのに普通話では十七分の一しか使っておりません、結果は同じ十七音節を使って俳句を詠む場合、普通話で詠んだ場合の意味量、情報量は日本語の俳句の四倍にもなります。それゆえ日本の俳句が十七音節からなると言って中国普通話で詠む俳句も十七音節と言うわけにはゆきません。意味量が四倍になるので日本語に訳した場合短歌以上の長さになってしまいます。
ご存知の「漢俳」という短い詩があります。ご察しの通りもともとのもくろみは「漢語俳句」のつもりだったのでしようが、前述の理由でとても俳句とは言えません、とどのつまりは「漢語短詩」になってしまいました。ところが思いもよらず、この「漢俳」が中国ではここ三十年来一般大衆に広まったことです。
ところで「漢語短詩」に帰せられる漢字で詠まれた短い詩は漢字文化圏の核心である現今の中国の領域内に一、二千年前からありました、しかし特にもてはやされる事はありませんでした。日本の俳句を倣った十七字漢俳もかってあの中国の有名な五四新文化運動時代に一時はもてはやされましたが結局うやむやのうちに終わりました。
その後、1972年に日中両国が正式に国交を回復し、1894年の日清戦争以来ぎくしゃくだった日中関係を改善するためか1980年中華詩詞学会が日本俳句代表団の大野林火らを中国に招いたとき、日本側からは芭蕉、蕪村、子規らの俳句集が持参され、歓迎会場で主人の趙樸初氏が即興で詠んだ十七字漢字の短詩が漢俳の始まりだといわれています。その短詩「綠陰今雨來,山花枝接海花開,起漢俳」の最後の二字が「漢俳」でした。
爾来、中国国内では漢俳が速やかに発展し、2005年には北京に於いて〈中國漢俳學會〉(2005.3.23)が成立したのをはじめとして、中國各地に漢俳學會が成立し,漢俳は中國全國に流行し,近年に至っては更にインターネットの普及と同時に日本文化に興味をもつ若者たちが少なからず創作に参加し,漢俳をして歡迎される「インターネット文學」の體裁の一つにならしめました。
「文学」とは高潔な言葉ですが、究極は政治の掌中から離脱することが出来ません。しかし文学、文化がほんとうに人類の種族、国家、文化間の闘争反目を和らげる媒体になれるならばそれにこしたことはなく歓迎されるべきです。以後今日に至るまでの漢俳の中国における発展ぶりは、今田述氏(現代俳句協会会員・葛飾吟社代表理事)がその著述の中で詳しく述べられていますから、ここでは贅述を避けます。
最近の漢俳の流行は2007年4月12日の「日中文化、sports交流年」において日本實行委員會と日中友好各團體が東京赤坂prince hotelで行われた中華人民共和國の總理溫家宝氏の歓迎パーテイで,溫家宝氏が詠んだ漢俳一首に始まり、その後漢俳は加速的に中国一般大衆に受け入れられ、日本と同じように子供たちにも歓迎されるようになり、もう一つの新しいブームを引き起こしました。
1980年のあと「漢俳の規則」と言うのが設定されました、下記の如くです:
〈中文は単音節言語で日本文の複音節とは違うゆえ、漢俳は俳句の十七音を漢字十七字とす。俳句と同じ様に三句にわけ「五七五」字三行に書き並べるゆえまた「三行詩」とも云う。
句のリズムは五言と七言の近体詩に照らして五字句の場合は一般に二三式、三二式、一四式;七字句の場合は一般に二五式、三四式、四三式とす、又別に六一式もある。自由律と格律二種に分ける。自由律と格律を問わず皆季語(季題)を要す、即ち季節をあらわす語彙であるが、日本俳句のほどには厳格に要求しない、季語は普通、句の始めに持ってくる。自由律はまた散型、新詩型と言う、即ち平仄、対応、押韻を必要とせず、白話で書くもよしとす、現代新詩に似ている。格律型は平仄和押韻を必要とす,というのは漢語の発音は日本語より複雑なるがゆえに、その音楽性を重んじて格律を規定するにあり、文言使用を要す。〉
そこで、漢詩に関係のある「曄俳」、「瀛歌」、「偲歌」、「坤歌」の四つの語彙は葛飾吟社の中山逍雀氏が日本短詩と漢詩を互換出来るようにするために提案した漢詩の定型、字數と定義を規定した名稱で,中国の中華詩詞學會にも認定されています。詳しい説明は中山氏の葛飾吟社のホームページをご覧ください。
当然ながら、漢俳について、前述のような説明に賛成しない人も少なく有りません。と言うのは中国にも古くから短詩があります、そのうえ五四新文化運動以後発達した口語の自由律現代詩でも、長さを短くする空間があります。しかし日本の俳句とは同じく短詩でも、その詩形、構造、詩境、内観、詩情においては大いに異なります。
一般に詩を別の言語に翻訳する事は容易なことではありませんが、日本の俳句を漢字だけの華語に翻訳するのはなおさらの事で、どうしても元来の日本俳句の形態や詩情をなくしてしまうものです。
また、漢俳の第一首は誰が作ったかについても、趙樸初でなく、それより先に詩人公木所の創作によるものと主張する人がおり、これらの爭議は最近(2009年)の中国のブログでも論争の話題になっていますが、本文の本題ではありませんのでこれ以上の詮議はいたしません。
中国の人たちが漢俳と日本の俳句についてどう考えているかについて、石倉氏の記述を引用してみましょう。
>『日本の俳句との関係で漢俳が何であるかが話題になりました。中国側からは、
・ 広大な中国では季語の共有は難しい。
・ これからの作詩は、都市の生活や現代科学技術などの現代的な事象に詩材を求めることが重要である。季節をめぐる抒情は古い。
・ 言葉の意味量のうえで、漢俳が日本の俳句をずっと上回るものであることはよく承知している。しかし、中国人にとっては、詩情を味わううえで一定の音の量が必要。十七音は短くできる限界に近い。 などなど、日本の俳句と同じ詩境をめざすことは難しい、という意見が多数ありました。 私が思うに、ですが、漢俳は、日本の俳句から学ぶものがあるにしても、中国の詩である以上、日本の俳句とは違って当然、という考えのもとに詠まれていると思います。だから、「漢俳」という呼称なのであって、「俳句」ではないのです。』
私は石倉氏は間違っていないと思います、「漢俳」は確かに「俳句」ではないのです、漢語短詩なのです、ただ十七音節だけが同じと言うだけです。「漢俳」が俳句でないと言う見方は私一人の考えでありません、漢俳が流行る一方、漢俳が俳句ではないという漢語系言葉の作家による見解もネット上で見られます。
中国の人たちが「季節をめぐる抒情は古い」と言う一点はよく理解できます。世界の俳句と言う場合、地球各地における気候風土の異なるのは常識またもちろんのことです。その上この目まぐるしい情報過多の時代において人間は生きるためにいろいろな情報を知らなければなりません、いや知らざるを得ない破目に追い込まれているのです、だから情報過多という言葉そのものも言い過ぎではないと思います。人間は先ずいきることが第一で、命あってはじめて文明ありそして文化が有り詩が生まれて来るのです。「季節」だけにこだわるのは時代の進歩についてゆけません。
中国ではこの目まぐるしい時代に一般の人々は平仄押韻を考える暇を失くしてしまいました、と同時に何時までも風花雪月ばかりにのめり込むのも五四運動の時代には「無病呻吟」ではないかと言われて敬遠されて今に至っているのです。
「花鳥」は自然のたとえ、「諷詠」は詩歌をうたい作ること。「花鳥風月」は華語では「風花雪月」に相当しますが意味が少しではあるが違うようです。と言うのは「風花雪月」には「花鳥諷詠」の自然の美しい風景を意味する他に、綺麗なる字句をならべるだけで内容がなく、また花柳界に遊興するのをさす意味が含まれています。
日本俳句で「花鳥諷詠」はいまや藤原道長の「この世をば……」の全盛期そのもの、日本俳句界のみならず世界俳句界にも足を伸ばしていますが、しかし世界では俳句そのものは受け入れても、花鳥諷詠や季語まではひっくるめては受け入れてはくれません。
日本でも同じ事情だと思います。花鳥諷詠のみに縛られて、もっと身近に起こる毎日の出来事に対する感動を詠んではいけないという規制に不快を感じる方がいらっしゃるようになりました。
ですが私は些かも風花雪月とか花鳥諷詠なる古漢詩や俳句を冒涜しようとしたり、詠んではいけないと言う気はありません、がそれらは一般庶民ではなく、一部の特に文学の資質素養のあるエリート族が享有する天才的才能からはじめて生まれる優雅な文芸なのです。一般庶民が無理に真似をしようとすると所謂の月並みの俳句や詩になってしまうのです。一般庶民は毎日の生活の内の身の回りに起こる多くの事象の感動から生ずる詩情を感じそれらを詩や俳句に詠むほうが資料が豊富でまた適切だと思います。
私は十七字が漢詩の最小限度というのにも同意しかねます。実際上漢詩には十七字以下の短詩がざらに有ります、石倉氏の記述の中に多くの例がありますからご参考ください。事実上、十字またはそれ以下でもけっこう詩情を訴えることが可能なはずです、そしてそれが、漢語俳句/漢字俳句を目指す人々の究極の目標であるはず、私は今それを、試しているのです。
「漢語/漢字俳句」と私は表題に出しています、それには訳があるのです。「漢語俳句」と「漢字俳句」は深く考えてみると確かに違いがあります。「漢語俳句」は漢語の俳句、即ち今の中国にあたる地域で使われていた又はいる言葉、例えば中国の標準語にあたる普通話、またそれと同じ言語学的性質を持つ漢語系の台湾語、客家語、広東語、四川語、……などで詠まれる俳句を指します。これ等の言葉は一字の漢字は皆一音節で、言葉を書きとめる場合、漢字以外は使いません。
「漢字俳句」について話しますと、日本語のように2131字の新常用漢字および7000字余りの漢字を平面媒体では使っていますが、話す言葉を字に書く場合漢字のほかに仮名を併用します、そして漢字だけで俳句を書いた場合、それは「漢字俳句」ではあるのですが「漢語俳句」ではありません。漢字だけを使っているが、漢語ではありません、と言うのは同じ漢字でも全然意味が違います。例えば日本語の「大丈夫」は日本ではもう字面通りの漢語ではなく「漢字日本語」で生粋の日本語です。「大丈夫」は日本語では「安心、危険なし、…」の意味ですが、漢語では「立派な男、偉大な男、…」をさし、全く意味が違います。
同じ漢語系でも文語の場合は一応お互いに意味が通じますが、口語の場合は同じ事や物を指す場合大分違うことが良くあります。日本語の「お月様」、「お日様」は普通話では「月亮」、「太陽」と言いますが台湾語では「月娘」、「日頭」といいます。
そして所謂の漢字もいまでは中国、日本、台湾でそれぞれ字形が違います、例えば日本語の「読書」、中国語では「读书」、台湾語では「讀書」と書きます、又発音も違います、日本語では「dokusyo」、中国語では「dushu」、台湾語では「takkchu」と違います。
門外漢のうわ言かも知れませんが、私は、始めは「漢俳」はあくまで「漢字で書いた真の俳句」でなければいけない、と考えておりました、でも、いま詠まれている「漢俳」は、絶対に詩のジャンルでの新しい詩形の短詩ではありますが、俳句とは言いかねます。
確かに押韻、平仄は(古)は漢詩を詩らしくならしめる為には必須不可欠の条件でした。しかし、そのややこしさのため、かえって一般大衆から敬遠される破目になりました。その結果、中国では五四新文化運動の後、前述の如く口語自由律の新詩が生まれたのでした。今の台湾、そして中国でも、口語新詩(自由律)が主流です。いわゆる伝統漢詩を嗜む人は余り多くはありません(失礼な発言ですまないと思っていますがそれが事実です、しかし彼らは少数のエリート詩人です、詩人はそうざらにあるものではありません、天賦の素質がなければなりません)。と言いますのは、シニカルですが、今の「普通話」で押韻はまだよいとして、平仄を区別することには多くの人がまごつきます、普通話ではいわゆる入声は、みな四声の中に組み込まれてしまっています。そこで、特に一字一字の平仄を覚えることは、詩そのものを理解するだけでも困難な一般大衆にとっては、難しいことなのです。「中華新韵」は古音と今音の違いを補うために作られたのですが決して正確ではありません、今に残っている有名な漢詩は皆古音で詠まれた詩です、ですから「中華新韵」の平仄と違うという矛盾が出てきています、そして、もっと皮肉なことは、台湾語には漢語の古韻が多く残されており、古詩を台湾語の読音で詠むと普通語より遥かに詩韻に富む詩吟を楽しめるのです。日本語の漢字の音読みで呉音を択んだ場合、その発音は普通話の発音よりずっと台湾語の読音に似ています。
上掲の漢語の意味、形、発音の違いは、元をただせば皆昔の漢字から変異して来たものです。片仮名も平仮名も、そして万葉仮名も、もし古えの漢字がなければ、今の中国文化も日本文化も、なかったことでしょう。そして、逆に現代漢語の多くは、「和製漢語」であり、明治時代に日本で創作され中国に逆輸入されたものです。例えば「経済」、「科学」、「哲学」…等。また多くの漢字は中華人民共和国の成立後、漢字の字劃を少なくするために簡体字と言う新漢字が作られました、そして多くの新字はそのオリジナルの字さえ想像することが出来ないほど変わっており、その上いくつかの意味が全く違う字を発音が同じか近いと言うだけで一つの字で表わすなど、文章の了解に不便と混乱を来たし、社会の反発を買い、あげくは第二段階の簡体字は公布のあと六年で取り止めざるをえませんでした。一方日本の漢字も戦前の漢字と違う字がだいぶあります。(中国では、今や昔の正字に戻そうと言う動きが民間で燻っています、ただ今の中国の政治体系ではむずかしいと思いますが、何時かその日がくると思います。社会は時々刻々かわっています、そして人々の考えも……。)
そこで、短い、瞬間の感動と言う俳句の真の意味または真髄を忘れてはいけない、と思いますが?
いかにすれば瞬間の感動を適切な最短の音節で表せるか、その最短の音節数はいくつであるか、それを模索しなくてはなりません。
それが、「漢語俳句」の字数になるわけです。私にはそれが、今のところは10字、というように思えます。そして、次にくるのは三四三、三七、五五、七三とするかは今はまだ検討中です。私の試作句が三四三なのは、いま三四三で試作しいると言うことだけです。多分結論は三四三、三七、五五、七三、どれでもいい、という事になるでしょう。そして、十字というのは基準であって、前後二、三字の字余り又は字足らずを許すものであります、が詩である以上リズム(律動)のあるのが最高です、ですから前述の三四三、三七、五五、七三のどれにするかは、その句その句のリズムによって決まるのです。とくに漢語の読音は一字一字声調があり又地域の言葉により読音も声調も違います、するとリズムも違ってきます。そして自由律と言う場合、字数に制限がありません、それは自由詩であっても俳句ではありません、適切なる最短の詩と言う俳句の核心に合わないからだと思います。
字数だけに縛られると言うのは?という方もございますが、秋元不死男氏の、ある程度定形に縛られると言うことが俳句の俳句たる由縁、という説明も、ある程度理解できるものかと思います。秋元氏も俳句の定形は元々文語を基にして決められたもので、口語で俳句を詠む場合すこし窮屈であると言っておりますが……
結論として、俳句と漢詩、詞は、詩のジャンルにおいて異なる詩形であることは明白です。で、いま流行の漢俳は、本質的に俳句とは言えません、ですが、正真正銘の漢詩の一つです。
前にも申し上げましたように、日本語の俳句が台湾で育ちゆく希望が薄いなか(絶対に不可能とはいいませんが)、真の漢語俳句(今の漢俳ではありません)の一員として、または世界の俳句の一員として、普通話と台湾語と客家語、……で詠まれる俳句(普通話俳句、台湾語俳句、客語俳句、……)を模索中です。もしそれに成功すれば、拙文中の「湾俳/台俳」「粵俳/広東俳」、「客俳」、それから漢字文化圏内における各地言語の俳句が、生まれてくるはずです。私の目指す「漢語俳句」は日本俳句を模範または模倣するのではなく、日本俳句の真髄、本質を汲む世界俳句の一つたる「漢語俳句」のしたにある漢語系各言葉、「普通話俳句」、「台湾語俳句」、「広東語俳句」、「客家語俳句」……を目指しているのです。普通話、台湾語、広東語、上海語……みな同じレベルにあって上下主従がありません、でも決して今の「漢俳」ではありません。
ネット上の「湾俳」を読んだところ、惜しむらくは、いわゆる「普通話」の語彙を、そのままそっくり湾俳に使っているのを見かけますが、それは外国人の一寸した勘ちがいから来たものです。元はとただせば、おそらく台湾の俳人黄霊芝氏が「湾俳」が七字から十二字までが適当だと主張したためかと思います。しかし黄氏に間違いはありません、彼は俳句の真髄本質をよく理解しいる日本俳句の達人であるがゆえ、漢字で詠む漢語俳句は漢俳の十七字では意味量が余り多すぎ、七字から十二字までのながさを湾俳で勧めたのでしたが、意味を取りちがいされて、七字から十二字までの漢字俳句は湾俳、そして十七字は漢俳と勘違いされたものと思われます。漢語圏内では漢字の表わす意味は皆同じで発音が違うだけだと思われているからです。例えば、日本語の「床(ゆか)」は、中国語では「地上」、台湾語では「土脚/足+交」と言います。文語で詠んだ場合は漢字文化圏内では一応相通じる場合が多いですが、口語では意味が異なってしまう場合が多いです。しかし日本語では文語でも意味が全然違う事が少なくありません、往々にして大きな誤解を招くことさえあります。
また、台湾語の声調は、七声で普通話の四声より三声多く、そのうえ会話読書で発音する場合、前の字の声調が必ず変わります、そのため外国人が聞いた場合、音楽のように聞き取れます。そして、その反面、台湾語で歌う歌は、歌詞を聞き分けられず、字幕を必要とします。一般に漢詩を吟じる場合、台湾語で吟じるのが最高だ、と言われています。
漢語の短詩に四七令とか五七令とか言うのがあります、そして字数は十一字または十二字になります。しかし二句一章の漢詩であり、もしその二句一章が季語や客観写生を抜きにしての俳句の本質に合うものなれば,立派な漢語俳句であると思います。私は漢詩を詠めませんので試すことが出来ませんが、日本で漢詩と俳句両方をお詠みの方はこの十字前後の漢詩を詠んでみてください、十七字の漢俳でなくもっと少ない十字あたりで「漢語俳句」、「漢字俳句」が詠めるはずです。しかし、季語、客観写生のおきまりは考慮してもしなくても構わないと言う了解の下です。
私の僭越な未熟な考えですが、私自身は日本俳句を詠むに当たって無季、自由律を択びます、ただし定型、有季で詠めるときはやはり定型、有季を遵守します、そして漢語俳句においても同じ態度です。「漢俳」はもう中日両方の共同の定義認識があり、多くの作品も有り、皆に親しまれているゆえ、そのままあたらず触らず「五七五」の漢字の「俳句?」、実際は新しい短い三行の漢詩として残し、ただ日本の俳句に基づく「世界俳句」の「漢語俳句」では、いちおう漢字十字を基準として前後二、三字の増減を許容する「俳句」を作りたいです、と言うのは、五七五、十七字の漢字では俳句としてあまりに内容量が多すぎるからです。
ここ暫くあれこれ考えましたが、日本の俳句は主位に来る語彙の後につづく「てにをは」によってさまざまに異なる意思表示が出来ますが、他の国の言葉にはそのような便利さがありません。それが、俳句を他国語に翻訳するのを難しくしている原因じゃないか、と思います。私は言語学者じゃありませんので大きな事はいえませんが、夏石先生は比較文学者ですので、この点につきご教示を仰げれば、と思っております。私は私なりに、前述の十字の漢字を基準として、前後一、二字の字あまりや字たらずを許容する漢字の俳句を、「漢語俳句」と言いたいのですが、さて命名が問題になります。「漢字俳句」、「中俳」、「漢語haiku」「Mandarin haiku」「漢普俳」……とか。ひょっとしたら「漢普俳」が一番手ごろかと思いましたが、でも、最後に落ち着いたところは……。
最後に私の漢語または漢字で詠まれる「漢語俳句」、「漢字俳句」に関する結論を纏めて見ました:
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(下記の叙述は小生のような素人が考えを述べるべき立場にないゆえ、適当でなければお取り消しください。) 「俳句」とは言葉によって表現しうる最短に近い「詩」である。その内容‧本質は江戸時代の「俳諧」の本質に基づいて子規の規定する「俳句」の定型を基準とする。
●日本語では五七五を基準としリズム、音感宜しければ字余りまたは字足らずを許し、「季語」の有無は問わないこととする。
●世界各領域の言葉での俳句は各言葉に於ける最短にして適切なる音節数による、人生に於ける全ての瞬間的感動の詩情―自然の写生‧人事‧倫理‧論理‧哲学を問わず、又主観、客観を問わず―を余白を残して詠める詩とする。(虚子の客観写生説は諸家により誤解との説も全く無根拠とは思われぬゆえ採択の可否は詠む人に残すものとす。)
●漢字または漢語で詠まれる「俳句」をまとめて「漢字俳句」または「漢語俳句」と呼ぶ、即ち「漢字」と「漢語」に上述の「漢字」と「漢語」に区別される両方の意味を持たせる。
▲「漢字/漢語俳句」の定義は、できうるだけ少ない漢字で、各地域の言葉によって(字形、語彙、発音)、日本「伝統俳句」の定義の客観写生に限らず、人生の全ての感動、即ち自然‧愛情‧情理‧人事‧論理‧倫理‧哲学などの主観的瞬間、または客観写生の感動を「読み」‧「鑑賞」の余白を残して二句一章一行に詠み、日本語俳句における季語は必ずしも必要とせず、字数は暫時十字を基準とし、韻律(リズム)宜しければ、前後二、三字の字余り、字足らずを許容し、漢詩における押韻の有無を問わず、口語、文語双方または混用を受け入れて詠まれる短詩とす。
▲「漢字/漢語俳句」は同じく漢字を使用するが、漢字を使う広い地域に於いて、各地域の言葉の違いによって発音、意味、語法または字形も違い、各言葉によって作られた「漢字/語俳句」は違うゆえ、その作られた「俳句」は各言葉によって命名する。例えば:
A)「(華語‧普通話)俳句」、「俳句(華語‧普通話)」は中国の普通話での俳句を指す、
「台湾語俳句」、「俳句(台湾語)」は台湾語での俳句を指す、
「客語俳句」、「俳句(客語)」は客家語での俳句を指す
「広東語俳句」、「俳句(広東語)」は広東語での俳句を指す、
B) 同じように世界各国語で詠まれる俳句は:
「英語俳句」、「俳句(英語)」
「フランス語俳句」、「俳句(フランス語)」
「ドイツ語俳句」、「俳句(ドイツ語)」
「リトワニア語俳句」、「俳句(リトワニア語)」……
そのほか、上の例に倣って命名す。
C) 英語表記に場合は以下の如くす:
「Haiku(Mandarin)or Mandarin Haiku」,
「Haiku (Taiwanese) or Taiwanese Haiku」,
「Haiku(Hakkanese)or Hakkanese Haiku」,「Haiku(Kantonese) or Kantonese Haiku」, 「Haiku(English) or English Haiku」,
「Haiku(French) or French Haiku」,
「Haiku(German) or German Haiku」, 「Haiku(Lithuwanian) or Lithuwanian Haiku」 ……とする。
*「漢俳」は前述の如く、既に日中両国の詩人が五七五の詩型として十七字の漢詩と定義し、また作品も少なからずあるゆえ、定義そのままの漢詩の一型とし、「漢字/漢語俳句」と区別するものとす。
*「湾俳」の名称及び作品は「漢俳」と違って俳句の本質たる短小に悖らぬゆえそのまま残して「台湾語俳句/台語俳句」と同じ意味と認める、しかし台湾語の発音で詠み、口語の場合は台湾語の語彙を使うこととす、また季語を必要とはしない。
(2010年6月28日 脱稿)
【参考:書目、ホームページ、ブログ】
楠木しげお:《旅の人-芭蕉ものがたり》、銀の鈴社、東 京、日本、2006.
嶋田青峰:《俳句の作り方》、新潮社、東京、日本、1941.
鷹羽狩行:《もう一つの俳句の国際化》、 (第17 回HIA 総会特別講演より)(2006. 6. 6) http://www.haiku-hia.com/pdf/takaha2006.pdf (2010-06-26 reached)
秋元不死男:《俳句入門》、角川学芸出版、東京、日本、 2006.
朱實:《中國における俳句と漢俳》:日本語学:14: 53-62.1995。
佐籐和夫:《西洋人と俳句の理解―― アメリカを中心に――》:日本語学:14:12-18.1995。
現代俳句協会編集委員会:《日英対訳21世紀俳句の時空》、永田書房、東京、日本、2008。
木村聰雄:《20世紀日本的俳句──現代俳句小史》。《21世紀俳句の時空》pp2~41. 2008, 永田書房、東京、日本、2008。
夏石番矢《Ban’ya》http://banyahaiku.at.webry.info/ (2010-06-26 reached)
石倉秀樹:《獅子鮟鱇詩詞》http://shiciankou.at.webry.info/ (2010-06-26 reached)
オーボー真悟(呉昭新):《俳句を詠む》http://oobooshingo.blogspot.com/
今田述:《漢俳を知っていますか?》 (2003)http://www.haiku-hia.com/hyoron_jp_ch1.html (2010-06-26 reached)
今田述:《21世紀と漢俳》(2009.12) http://www.haiku-hia.com/hyoron_jp_ch.html (2010-06-26 reached)
姚大均:《漢俳還不如蘇俳》, http://www.post-concrete.com/blog/?p=366 (2010-06-26 reached)
北縣縣民大學「俳句教室」(1)(2)(3)(4)》,「臺灣俳句集(一)」,1998,pp.52~70,台北,台灣。
黄靈芝:《臺灣季語及臺灣語解説》,「臺灣俳句集(一)」,1998,pp.76~83,台北,台灣。
莫渝:《鐘聲和餘音》:〈愛與和平的禮讚〉,pp. 3-17,草根出版,臺灣, 1997。
于強: 瞿麦氏、漢俳・俳句で中日に架ける橋: http://japanese.beijingreview.com.cn/yzds/txt/2008-06/18/content_128412.htm (2010-06-26 reached)
李秋蓉:《詹冰及其兒童詩研究(碩士論文)》,國立雲林科技大學漢學資料整理研究所,2003。
黄智慧:台灣腔的日本語:殖民後的詩歌寄情活 動。文化研究學會2002年會「重訪東亞:全球、區域、國家、公民」會議論文。
中山逍雀:曄歌,世界最短 漢字文化圏共通漢 詩:http://www.youka.cc/index.html (2010-06-26 reached)
《葛飾吟社》:http://www.kanshi.org/ (2010-06-26 reached) 潛艇日誌:《新俳句聯合陣線》今上線。http://www.post-concrete.com/blog/?p=1664 (2010-06-26 reached)
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中山逍雀:《俳句と漢俳》,http://www.kanpai.cc/book/book13.htm (2010-06-26 reached)
中山逍雀:《曄歌》,http://www.youka.cc/Ayouka/index.htm (2010-06-26 reached)
羅蘭‧巴特 著;李幼蒸 譯:《寫作的零度》,〈寫作的零度〉,1991,桂冠,台北,台灣,pp.75~128. (國立台中圖書館-電子書服務平台)
羅蘭‧巴特 著;李幼蒸 譯:《符號學原理》,〈寫作的零度〉,1991,桂冠,台北,台灣,pp.129~214。(國立台中圖書館-電子書服務平台)
*燃ゆる志の試練と感謝(第一部)ー日本本土へー東俊賢回想録
*燃ゆる志の試練と感謝(第二部)ー待望の帰郷ー台湾へー東俊賢回想録
*曹永洋先生の台湾の名画 解説および随筆
*台湾語表音記号とは?
*台湾語(閩南語)常用1000語-語彙表-台湾語、日本語、華語、英語-対応
*台湾語會話篇(Conversation in Taiwanese)(台湾注音符号、台湾ローマ字音標付き)-(華語、日語、英語同義語)
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