【1】麗しき生れ故郷
紺碧の空と海、眩しく光輝く真赤な太陽,南の海に浮ぶ緑の麗しい台湾。400年前の昔,平戸に母をもつ鄭成功の軍隊と台南赤崁楼城に立てこもっていたオランダ兵との戦ひを交えた激戦地、数多くの名所旧跡を残した古き都台南から東方遠い道程の辺鄙な山中、車も電燈無き寒村に、一人息子として生を受けたのは世界大不況で、正に戦争危機が押し寄せる1930年であった。
家の後は花崗岩のある小山で草木が生い繁り、小鳥がさえずり、格好は馬が川の水を飲んでいるように見えるので、馬仔山と名付けられ、ぼく等は馬仔山の子供と呼ばれた。傍を流れる小川の水は清く透き徹り魚、蝦、蟹が泳ぎ僕の良き戲れの場でもあった。附近一帯の山麓山腹の約三萬坪程の果樹園にはバナナ、パパイヤ、マンゴウ、龍眼、パインアツプル、蓮ブ等熱帯果物が数多く栽培されていた。猿どもは群を成し果物の荒しにくる。大声で威嚇すると手に手をとり木と木の間を投げ縄の如く,巧みに飛び渡り逃げて行く、谷間を飛びまわる奇麗な蝶蝶、兔がピヨンピョンと躍り出る平和な大自然は,兔追ひしかの山、小鮒つりしかの川と歌った童謡"故郷"の歌詞 が如し。今でも僕の愛唱 歌であることはこの所以である。裏山を登れば遥か東方に2000メートルを越える台湾中央山脤の連峰が聳え、東の空から昇る旭日は燦爛として美しく、大きな希望を抱かせる。眼下には峡谷から流れる南台湾最大の河川,下淡水渓は蜿蜿長蛇の如く續き、高雄方面の海に注ぎ,台湾海峽の波濤となる。西に眼を転ずれば連なる低い小山の群の彼方には台南安平港の地平線が見え、夕暮に沈みかける茜色の空は絵画の如くすばらしく感動を與える。
但しこの平和な田舎村にも不幸があった。古屋米倉の赤い焼跡に祖父はその経緯を語ってくれた。「大正四年に抗日強硬派が、深い山奥に立てこもり頑強に日本軍と激戦抵抗した大事件で、當時日本軍は広域の村民が協力したと疑心暗鬼、折り返しに全村を放火虐殺を行なった。幼さなき父は祖父に護られ,裏山の断崖絶壁の岩窟で難を逃がれた」云云、最近図書館で當時發行の台湾日日新聞のフィルムでその事件の真相を發見、真実に吃驚したのである。
【2】遠き村の小学校に入学
遠い村の学校に入学したのは数え年七歳,クラスの最年小者だつた,片道1時間半以上かかるので,国旗掲揚、朝礼に間に合う為每日薄暗い朝霞の中,村の上級生に引率され,山を越え川を渡り谷を経
て、雨の日も風の日も欠かさず登校した。放課後の帰りも又村の兄貴達に率いられ山道を、途中草叢から飛び出す兔や狐,飛びまわる蝶蝶、トンボ、小鳥を追い、川にさしかかると水の中に入り遊んだ。山には豊富な野生果物,野いちご、バナナ等が沢山あり摘みながら皆で分け、食べながら吾家に帰る天下太平の楽しさは幸せであった。
殖民地の台湾は皇民化運動で、一年生入学から「白地に赤く日の丸そめて」や 「鉄砲かついた兵隊さん,きれいだあ!」等日本教育が仕こまれていた。昭和12年支那事変が起り、田舎の学校で只一人の日本人先生も応召され、在郷軍人の軍服に伍長の肩章と奉公袋をさげ出征,全校生道路の兩側をはさみ,その間を歩き健気に出で征つ先生を、小さな手にもつた日の九の旗を振り、出征兵士を見送る歌 "天に代りて"を歌い万歳万歳と後姿が,遠くに消え去るまで見送ったことは,二年生の記憶で忘れられない。この年に帝国海軍連合艦隊が高雄港訪問,父につれられ山道を3時間も歩き,始めての大型バスで大都會高雄へ軍艦(長門)見学,大きな艦砲と遠く見える望遠鏡に見とれて、迷子になり水兵が親元にとどけてくれた。
村で唯一中学校出身の父は昭和13年春,台南州産業組合代表で九州、関西、関東等地の内地産業組合を研修旅行,天長節には招待され,代代木練兵場で白雪に乗った天皇陛下の閲兵式を仰ぎ,遺された日誌に感動の文章が、達筆で綴られていた。その時土産としてくれた玩具,動く戦車は非常に喜び興奮した。銃口から火を吐きながら走る戦車は魅力的で、無我無中でいじり遊んだが、数日後好奇心で分解し、もとに戻すことが出来ずこわしてしまい、父にしかられたが,後日には[子供の科学] [忠勇美談]等絵本を買ってくれた。いささか何かの期待がありと思われる。子供の頃から珍らしい物事に対し、いつも大きな興味があった。ある日町角に停っていた自転車に、何故走るのか?人の目を盗み動くぺタルを廻し、チエンに触れていた指がギアにはさまって、大声で泣き喚いて道人に助けられ、いたずら千萬に父も溜息をつき困惑していた様子でした。
【3】町へ転校 、いじめと暴行受ける
田舎の学校は教師が不足,設備も不充分,且つ登校道程は遠く、眼光遠大な父は「可愛い子は旅をさせよう!」との決断で頑固な祖父の反対を受け乍らも台南市内の名校,末広公学校に編入試験で三年生に転校した。親元を離れ寄宿の孤独生活は寂しくホームシックと惡党餓鬼どもに,田舎ッぺイといじめられ暴行を受け,狡賢こい餓鬼大將は逆に暴力の罪を僕に転嫁し,先生も有力者の子である彼の話を鵜呑みで、不公平にも無実の罪を操行"丙"と通信簿につけた。孤立無援の僕はくやしく、故郷の空を眺め父母やはらからを、思い涙をポロポロと幾度も流し,素朴な田舎が恋しくて,親元に帰りたかった。教育に厳しかった父でしたが,僕の真実なる説明と苦情を聞き入れ,理解と励ましをくれた「山の子は人一倍に努力勉強し学力をつけ、体を磨き強くなったら馬鹿にされない。強い男の子になるんだガンバレ!」肝に銘じ奮発努力した。後日教師になつた時、この苦い体験と試練が、児童教育に役立ち、子供の紛争喧嘩の処理では慎重且公平を極めたのである。
校門の左右に馬に乗った大楠公と,薪を背に本を読んでいる二宮尊徳,ふた方の銅像は忠君愛国と節倹勉強家のシンボルでもありました。
整然と立並ぶ校舎の間には美しき花壇と噴水があり,全校生三千余人を有するこの大規模な学校は稀少で,設備も充実,先生の素質も優れ,米田校長先生の下で、学門知識としつけ、精神教育が厳しく行なわれていたので傑出した先輩が数多く出,社會で活躍していた。制服は三ツ葉入りの五つ金ボ夕ンをつけた黒色上着と半ズボン,三本の赤筋に三ツ葉に校名人りの金色帽章をつけた制帽と黒い靴,スマートできりつとした服装は毎朝服装検査があり,ハンカチ、チリ紙等は必ずそろえ毫も欠點が許さなかつた。服の破れやボ夕ン抜けも,小さな手で縫針の仕事をおぼえ自立で処理したのである。高年級になると理科が加わり、科学実験は特に好きで、試験管でつくつたキャンデーを同級生にあげたら人気を呼んだ。学年中父の規定で、夏休みと正月の休みだけしか帰省出来なかつた。孤独生活にいじめの屈辱を忍び,耐え難き数数の試練を乗り越え、学力も向上し,強兵強国で重視の体育も水泳に長じ,陸上選手にも選ばれ、訓練を受けたくましくなり,矢野サ一カスの公演に飛入りで小人を腰投げ、観衆の拍手と三菱製鉛筆―ダースもらつたが、これを見た同級生から先生の耳に入り、呼出され褒めてくれるかと思ったが、逆に「貴様勉強せずにサ一カ一ス見とは何事か?」痛いピンタを頂戴したが 、しかし同級生達は「君強いナア!」と親指を立てほめたたえてくれた。一方遺憾にもいじめの大將は学科が追いつかず、且登校拒止で、威勢はなくなり、卒業まで先生を惱ませ気の毒でした。
【4】燃ゆる大空,飛行機への憧れを呼ぶ
映画は劃時代的なもので,人人の生活に変革をもたらし、学校も視覚聴教育として利用、学習的効果の向上に役立つた。台南市内に映画館二軒あり最新設備を誇るスクリーンとトーキ─に二階には日本式疊の座席がある新築の宮古座(昭和17年日米交渉の任務を果した野村吉三郎駐米大使台南訪問中にはここで演説)に,学校は映画教育で忠臣藏、燃ゆる大空,マレ─戦記,ハワイ、マレ─沖海戦,加藤隼戦鬥隊等教育性のあるニユースや映画をよく見せられた。もう―軒は小規模の世界館で主としてちやんばら映画で、人気を集め宮本武蔵、丹下左善、水戸黄門、猿飛左助等は面白く楽しかつた。特に映画〔燃ゆる大空〕,スマートな飛行服に身を固め,手を振りながら,飛行機に搭乗する飛行土の雄姿,そして[輝く翼よ、光華に勢え、航空日本、空ゆくわれら」の躍動させる勇壮な音楽に、大空に飛び立ち縦横無尽、自由自在に飛翔するシーン、その感動は忘れ難く、幼な心に強烈な空への憧れと願望を呼び起した。また予科練の歌で「七ツボタンに桜といかり」の歌にますます興奮,空飛ぶ飛行機を眺め,航空時代到来を信じ航空学校と航空士官に夢を追ったのである。天翔ける飛行機は僕の人生に大きな影響を及ぼした。だが父
にとって一人息子の僕が命を賭ける飛行士になるとは、晴天霹靂で反対,同意の兆しは見えず致し方なく一時的に従順したが,夢は頭の中から消え去ることはなかつた。
大陸戦線は泥沼化して終止がつかず、続く大平洋戦争で国民の士気を鼓舞する戦争映画と軍歌、戦時歌謡が続出戦友、麥と兵隊、愛国行進曲、愛馬行進曲、太平洋行進曲、月月火水木金金、轟沈、若鷲の歌、暁に祈る、出征兵士を送る歌、さうだその意気、歩け歩け、鄰組等意気昂揚でよく歌わされた。そして誇りをもち、頭を上げ,胸を大きく張り,大手を振り,歩け,足を鍛へ強くせよと,毎日午前の10時から約20分、白いランニングにパンツ、頭に赤いはち卷に隊形をとり,歩け歩けのレコードにあわせ,行進訓練を欠かさず行わされた。戦時用語、標語も沢山出まわり,聖戦、米英撃滅、出せ一億の底力、撃ちてし止まん、滅私奉公、進め一億火の玉だ!等無邪気の僕等の心底まで戦爭意識が浸みこんだ。
【5】時局緊迫、人気漫画 のらくろ停刊
金鵄輝く日本,皇紀2600年祝典に,台湾も多種多様な行事と催しに,李香蘭長谷川一夫共演の「支那の夜」で賑わせた昭和15年も幕を閉じ,翌16年の元旦、を迎ヘ,小学校は國民学校と改称4月に發足。新聞ニユースは日米交渉ワシトンで始まる,ルーズベルト、ハル國務長官,野村駐米大使は新聞人物となり、後で来栖特使の名も加わった。関門海底トンネル開通,日本軍南部仏印に進駐,東條英機内閣成立、11月末には米国務長官ハルノート提示,刻刻進む時局緊迫の報道で戦爭の瀨戸際まで切迫していることを感じさせた。
9月21日に始めて見る"皆既日蝕"ガラスを墨で真黒にぬり観察、眼前に見る壮観なる宇宙の神秘的自然現象に興奮非常に喜び,科学に対する追究に益益興味を盛り上げた。しかし大好きで毎月面白く読んでいた少年倶楽部連載の人気漫画「のらくろ」10月号で突然姿を消し,のらくろ伍長のいきさき動向が気がかりで大変がつかりした、何か起つたようである。
学校は反米英教育で米鬼英鬼撃滅と敵愾心を煽る軍国思想と、忠君愛国、大和魂の精神教育に、台南の聨隊祭に行ったら敵国主脳の似顔絵を僕等に叩かさせ敵への恨みを燃えさせていた。戦火に備へ防空、消火バケツリレ、救護、退避訓練が、真剣に行なわれていました。
當時台湾は沈まぬ航空母艦とし、南台湾に台南海軍航空隊[零戦]、 岡山に高雄海軍航空隊[一式陸攻] 屏東陸軍航空隊[隼]の飛行場があり、近くに秘密の[左営軍港]が高雄要塞地區に、そして大規模な海軍燃料廠、六一海軍航空廠及び砲兵や歩兵等各種の陸軍部隊が配置されていたので軍事施設が数多くあり,開戦数ケ月前から南台湾を走る汽車は黒い暗幕が降ろされ、
覗き、攝影禁止,憲兵が車内で監視、防諜の策が厳しく施されていたのである。学校では防諜週で“スパイ御用心""壁に耳あり"見えず敵を防げ"とやかましく教えられ国民にも防諜を強く要求していた。
【6】皇軍南台湾で南洋攻略の準備
11月初には台南孔子廟附近の新築嘉南大圳ビルに將官旗がひるがえり,憲兵、衛兵がいかめしく警戒してしいたので、登校の道筋も遠まわりに変更された。台湾軍司令官本間雅晴中将,台北から台南に転進、比島攻略の指揮をとっていたのである。そして珍しい戦車、砲兵、自転車部隊等各兵種の軍隊が溢れるように台南、高雄方面に集結,学校教室の一部は兵隊達の假住居となり,休み時間には僕等と遊ぶこともあった、吾校には満洲から移動して来た砲兵が駐留、あつい冬軍服から半袖の夏服と日よけのある戰鬥帽に着がえ,毎日運動場の木の下に置いていた大砲を牽引車の上に登載する訓練に若い兵士が上半身裸で汗だくだく励んでいる姿は印象的でした。
12月7日の日曜日朝、大勢台南市内に駐留待機していた兵隊さんの姿は見えず、嵐の前の如く異常な静けさで、市民は戦争到来との予感と恐怖心で、びくびく心配,軍隊は深夜中に移動、高雄港から輸送船団でバシー海峡を渡りフイリッピン攻撃に赴いたのである。
【7】大平洋戦争勃発
忘れ難き昭和16年12月8日 月曜日、師走と雖ども南台湾は快晴,半袖姿の暑い日でした。その日,中低学年は遠足で朝早くから出発しており,高学年の僕達は時局緊迫の為,学校警備で残り,万―焼夷弾攻撃で校舎に火事が起つた時、
―大任務としてバケツリレー で消火活動する計劃でした。
早朝学校に着くと戦鬥機、 爆撃機が平常と異なり黒い爆弾を腹にかかえ,轟轟と爆音を立て航路の真下にある校舎の上空を掠め,次次と巣立ち群を成し南の空へ 飛んで行く。これを見た僕達も教室に入ると戦争が起つたらしいと白熱した議論でやかましかつた。先生が急ぎ足で教室に入ると緊張した表情で「皆静かにしっかり聞いとけ!今朝米英相手に開戦、近くのフイリッピンから空襲があると思ふ「空襲だ!」
退避号令と共にすかさず両手の手のひらで顔と耳をおさえ、机の下に伏した。本当に空襲かと思い心臓がどきどきしてこわかった。解除と聞いて―安心、開戦当日の演習でしたが本当にびっくりしたのである。
皆緊張しながら教室のスピーカーに耳をかた向け,勇ましい軍艦マーチに続く臨時ニユース,米英に対し開戦,真珠湾奇襲大成功、マレー半島上陸香港攻擊等全國民を興奮させた。
教室を出ると廊下の掲示板に当番の先生が既に開戦と戦況のニュース摘要が書き上げていた。
12月9日の各新聞は大文字の標題で帝国
米英に宣戦を布告す、宣戦の大詔渙発する、西太平洋に戦鬥開始、米艦隊航空兵力に痛爆等次次に勝利の消息で記事万載。10日にはマレー沖海戦で英国極東艦隊の誇る不沈艦三万トン級の[プリンス オブ ウエルス]と[レパルス]二隻の巨艦が海軍航空機の果敢なる攻撃で擊沈され、25日には香港を占領した。此の戦爭で支那事変を含め「大東亜戦爭]と呼称。翌17年1月2日にはマ二ラ市陷落。毎月8日を大詔奉戴日と定め学校では記念式と神社参拝があり,宣戦の詔勅 「天佑を保有し万世一系の天皇……」と暗誦させられたのである。1月11日日本最初の海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに,2月14日には陸軍落下傘部隊スマトラ島パレンバンに降下,飛行場と製油所確保。「見よ落下傘空に
降り,空を征く」 空の神兵の歌が流行し愛唱されました。
2月15日シンガポール占領,昭南島と改称,戦捷祝賀会が催された。映画 [マレー戦記]で山下、パ―シパル会談で山下はYESかN0かと無条件降伏を迫るシーンは有名になり,僕等もよく真似して遊んだ。そして此の時南方で獲得した戦利品、ゴムまりを特配で小学生に配り僕達を喜ばせた。
緒戦は破竹の勢いで向う所敵無し,勝利の吉報で国民は有頂天で盛り上つていた。12月8日早朝南台湾の飛行基地から発進した航空攻撃隊は,菲島のクラークとイバ飛行場を爆擊,[ボーイングB17] 18機を含む約100機を撃破,制空権を握ったので心配された,一衣帯水のフイリッピンからの敵機空襲は2ケ月経過しても無くやっと安心した。鹵獲したB17は後日テスト飛行で定刻通り低空で台南上空を飛んで行く姿を市民に見せた,流線型の尾翼と巨大な機体を始めて見,敵アメリカにこんな大きな飛行機があると知ったのである。3月6日大本営より真珠湾特殊潜航艇攻撃隊,九軍神に二階級特進と発表。先生にどうして、五隻に九柱と質問したが「貴様あ呆だなあ
一隻は隊長一人乗りだそんなこともわからないのか?」叱責を受けた。事実酒巻和男少尉が開戦第一号の捕虜のままで敗戦を迎えたのである。菲島戦線では,バ夕ン半島の苦戦で、一ケ月後にコレヒドル島を占領、マツカーサ司令官は,「I shall return」と言葉を残し既にオ―ストラリアに脱出,4月9日米軍降伏,しかし戦後には皮肉にも日本占領軍司令官としてもどつたのてある。
戦後本間司令官は,捕虜に対し[バタン死の行進]で約5000人の死者を出した罪で、軍事裁判で処刑された。
【8】[B25] 16機 日本土を初空襲
17年4月18日予想もされなかつた[ドウリツトル隊]はB25で空母[ホーネツト]から飛び立ち、東京、名古屋、神戸等大都市を初空襲,戦爭指導当局に大衝撃を与えた。敵機は退避先の中国大陸に強行着陸又は落下傘降下を行い、八人が日本軍の捕虜となり,三人はのちになって処刑され,一人は獄死した。戦後真珠湾攻撃隊長淵田美津雄が,台湾台南市訪問中の時,英雄人物を見たさで会場内外共聴衆者がいっぱい、講演で生還したドウリツトル隊員の話が出た。
終戦後淵田氏が極東戦犯法庭に行く途中,巣鴨駅で一人の親切な米人より福音のちらしをもらつた、親日派の白人と思い、内容を見ると戦爭中日本の俘虜で、その名はJacob De Shazerで軍部の非人道な拷問,暴行,傷害等残暴な虐待を受け、曽っては日本に対する怨み深く、瀕死を奇蹟的に生還した特攻隊員でした。獄内で国際赤十字より挿し入れのバイブルも無意味で神の存在敵国日本を否定、癇癪で片ぱっしから破り捨てたが、無念無想に讀んだ
「ルカによる福音書」の23章34節に「父よ、彼等をお赦し下さい。自分が何をしてしいるのか知らないのです」の言葉に遂に心をうたれ,復員後神学を学び、宣教師となり,再度志願し、かねての日本に飛び,今度は爆弾でなく福音をもつて臨んだ。淵田氏は又ミズーリ号艦上の降伏調印式に代表として,クリスチヤンの米国海軍ニミツツ提督が,跛を引く日本首席代表重光外相に、温かい親切の手を寄せているのを目にし,更にこの可憐な俘虜が敵に対する寛容と愛の善行に感動,遂にキリスト教に帰し、終生を世界の平和に捧げたいという結びの言葉に僕は自づと敬服の頭が下った。
【9】ミツドウェィ大海空戦
B25による東京初空襲後,軍司令部は米艦隊制圧の為,ミツドウェイ作戦を急ぎ実施,昭和17年(1942) 6月5日の大海空戦で主力空母赤城、加賀、飛竜、蒼竜四隻亡失飛行機322機,将兵3500人を一挙にして失った。日本海軍にとって最大打撃を与えたのは,真珠湾攻撃以来の熟練パイロツトを多数喪失、何にも代えられない痛手で後後の作戦に大きな支障をもたらした。米軍は勝ち戦さに乗じ7月上旬ガナルカナル島争奪戦開始,8月8日から数回に渡るソロモン海戦で新發明のレーダー装備を有するアメりカ艦隊と交戦し敗北、航空消耗戦も激化しガ島への補給線も断たれ、翌昭和18年 2月1日に結局陸兵10652人撤退するに致つたのである。しかしこの敗北を新聞ニユースでは逆に勝利と歌い、国民は事実を知らず、先生もガ島の背北撤退を転進と教えられた。
【10】虚実の勝利、国民生活悪化
緒戦の嚇嚇たる戦果も遠き太平洋の前線では,開戦後半年でアメリカ軍の強硬激烈なる反撃で、日本軍はぢりぢり,敗北していたにもかかわらず,大本営発表では勝利と歌い続けていたので、銃後の国民は事実を知らず、表面上平穏無事なるも戦時生活は日に日に悪化、苦しくなつていた。17年6月17日は日本が1895年台湾を殖民地統治にしてから,丁度47周年の台湾始政記念日を迎え,戦捷祝賀と共に,台湾総督府では華やかな博覧会と各地で色色な催し内地東京の日比谷公会堂でも"台湾のタべ"を開催し盛大に祝った。
元来逢来島の米は二期作で豊富な産地であり,600万島民には十分に憂えなく賄えていたが、日本内地の食糧支援で輸出と,軍部需要の優先で不足となり米にさつま芋、雑穀混入の主要食に代り,肉魚も配給となり,且つ配給の衣服も代用品の ステーブルフアイバ
で破れやすく、破れは縫い足し又縫い,靴は底が鰐口になると糸で縫い止め、靴下も底がボロボロ底なしで着用、配給もおろそかで,人々は食物 日用品の窮極に追われ,闇行為が発生、根絶に経済警察の厳しい取締にもかかわらず途絶することが出来なかつた。”何も言わず欲しがりません勝つまで”
のスローガンで辛抱の日々を送った。かように戦争中は十分に食べることも出来ず着るものも乏しく,あらゆる物質欠乏のもとで我慢に我慢と鍛えられた忍耐力で,強く今日まで生きのびたことに感謝がいつぱいである。
【11】無線電、電波の魅力と誘惑
戦争完遂に心理作戦,宣伝放送と前線の将兵を励ます為に,台湾北回帰線近く嘉義近くの民雄に強力な電波を発射出来る,高さ100mのアンテナを有する中継局が設置され,東南アジア向けに放送していた。島内の各放送局も、放送内容は敵視に関する新聞ニユースが主で,意気昂揚させる歌や番組、宣伝ばかりでした。開戦一周年記念で、僕も児童合唱団で台南放送局で [凱旋]と[児島高徳]二曲を歌った。そしてトンボの鉛筆,一ダースを記念としてもらった後,放送設備を見せてもらい、案内係員が外部のアンテナを指し「皆さんの歌声は,既にこのアンテナから、電波で全国各家庭のラジオに入った、無線電の未来は前途洋洋たるもので、よく勉強し無線電の発展にガンバツテ下さい」との言葉は頭の中に深く刻み込まれた。
ある日曜日,下宿鄰の中学生が,鉱石ラジオをいじつていた,傍で呆然と見とれている僕に、受話器を耳にあて「聞いてごらん!」 音楽番組が聞こえ妙なる電波に興味を感じ喜んだ。作り方を教えてくれと頼んだが、自分で勉強せよ鉱石と材料はジャンク屋で売つている、全く不親切と感じさせた言葉でしたが、この暗示は探求の動力となり,台南図書館児童室で[図解鉱石ラジオ]の本を発見、早速要点をノートにしジャンク屋に飛んだ。絹卷銅線,基板、レシーバ,鉱石を求め、手巻でスパイダコイルを作り、鉱石とレシーバに組合せ,電球のマイナス側にアンテナ線を巻きつけ、受話器を耳にかけ、鉱石をたたきながら,調整すると台南放送局の番組が聞こえ,成功が嬉しくて,その夜は興奮でおそくまで眠れなかつた。かように目に見えず空中の神秘なる電波は魅力的で飛行機と同樣僕を誘惑し夢を抱かせ、後日電子工学に首をつっ込んだのである。
六年生の夏休みを過ごした9月の新学期の工作科目に模型航空機グライダーの製作があり僕達の興味を呼び,完成後の競技で喜んだ。そして第―回子供科学展覧会に出展した僕の作った幻灯機が佳作に入り、先生にほめられて嬉しかつた。
【12】仰げば尊し吾が師の恩
昭和18年の元旦休日、台湾は未だ平穩無事で良い日でしたが、三月の中学入試を目先に控え,のんびり悠悠と遊べなかった。宿題は多く夜は灯火管制で暗き室と電球のまわりは黒いカバーをかぶせた,うす暗い光の下で,部厚い歴年入試問題集と参考書を前に,余念無く夜中まで齧りついた。学校では模擬試験と先生の挺入れで試験準備が進められていたのである。當時中学校が少なく,且日本人学生入学優先、殖民地の台湾人学生は上級学校に進学するには,人一倍に勉強努力の必要があった。
卒業も真近に迫り予定の日本内地旅行も戦局の悪化で取消され、島内台北旅行になり,台南駅から五時半の―番列車で北に走ると,農作物の宝庫である広大な嘉南平野で夜明け,昇る朝日は大地の田園を照らし、早朝の風景は格別にきれいで美しかった。台中を過ぎると地形の変化で鉄橋、トンネルが多く,汽車の窓につかまっていた友達が,「今は山中,思う間もなくトンネル……」と唱歌の
”汽車” を歌い始めたので皆が斉唱,楽しい汽車の旅でした。台北着は黄昏の迫る時で,その夜は始めての遠い旅行で皆が興奮で遅くまで騒ぎ,先生に叱られて就寝した。翌日は台湾一の広い三線道路(参拝道路)で総督府,植物園等名所旧跡を参観し帰途についた。
卒業式には先生達は正式な文官服で、厳粛な式が上げられ、ピアノ伴奏にともない,[仰げば尊し吾師の恩]を歌ったが、途中で女生の涙声で,男生も目に涙を潤ませ感謝の気持でいつぱいでした。スパルタ式教育で厳しかつたが、恩師との深き誼みは現今とても見られない,かように現代化の日本を作り上げた小学校の先生の偉大なる功績を今も敬服して止まない。
【13】志望と入学試驗
少年航空学校への志は年齢不足で断念,誘惑の無線電で工業学校の電気科に強く志望したが、父は電気は感電するので命は危い,農業学校は農業技術を習得,家の農園田畑も継承出来,安全で一舉両得と言うが、僕は農業に微塵も興味なしと無言の抵抗。
信用組合で会計担当の父はとうとう安全なる農業と商業二校の強制入試志願に決めてしまった。二校とも好きでなかつたが台南商業学校の方がましと思った。但し當時南洋躍進の国策で貿易人員が必要の為,その年商業学校の受験者は例年にない多き志願者で、僕の試験番号が1300余番と見て100人に合格するには小学卒の僕には,高等科の受験生に到底勝つことは難かしく、合格は絶対不可能と思った。そして入試前日田舎からわざわざ励ましに来られた父に、試験に行きたくないと言ったので,手に持つていた折りたたみの扇子で教訓を受けた。
泣き出した僕に内柔外剛の父も折れ 「さう言わずにおとなしく明日は試験に行ってこい、5円やるからイロハ堂(文具屋)で,必要な文具を買い,残りはあげる」と言って父は寂しく最終バスで田舎に歸った。残りの釣銭は予想外の小遣銭になり,気が晴れて試験に行くことに決めた。入試当日は早朝5時に起床,復習に準備を整え試験場に臨んだ。試験で一番心配していた数学は、案外たやすく解答出来模範答案で満点と確認,そつと胸をなでおろした。発表は受験番号と名前100人の合格者リストに入っているのを見て歓天喜地した。但し父は夕刊で同姓同名と半信半疑だったが、間違いなく僕とわかり,恵まれた幸運に感謝、親子共非常に喜んだのである。
【14】実りある充実した中学校生活
正式の合格通知で四月一日入学、物資乏しき最中でしたが、合格の中学校新入生には統制の上質中等学校制服が配給された。新しい学生帽、新しい皮靴とあみあげ靴、真に中学生になった誇りであった。校歌に [図南の翼をうち広げ…燦たる南商]と歌われ 算盤競技常に優勝の傳統ある学校で、先輩は銀行、金融業界に歓迎され活躍,故に算盤の訓練は厳しく苛酷でした。僕のはじきの手指構えがくずれ、片手に竹刀をもつた指導の大久保先生が
大阪弁で「おばあかん」と言われ意味がわからず、を振り向けたらあっという間に、竹刀で連続的して頭をたたかれ、瘤が腫れ上ったので、算盤は大嫌いになり,つくづく商業は趣向に合はずと感じたのである。同窓生は検定試験一級を目ざし,放課後簿記室で猛訓練を続けていた。ソロバンを除き僕は他の課目はまじめに習得した。特に英語、マレー語、代数は興味あり、よく勉強し成績もよかつた。その時代、敵国語として排斥された英語も,吾校は貿易人材育成の為マレー語、北京語の課目があり,外語に力が注がれていた。英語担任の鈴木先生は日本語発音の英語でしたが厳しく、英文字にカナ付けで読むと発見しだいたたかれ,英文法も苦手の同級生陳君は恐怖症で英語の時間にはさぼり落第とされ,同情の致りでした。
体育は毎日2000m走らされ体力検定初級の9分に入り,水泳は選手として1000mを泳ぐ練習をさせられた。剣道も好きで強者にも容赦なく手向い「おめん、こて、突き」と挑み、又冷たい冬の寒稽古でも真剣に取り込み,汗をだくだく流した。また放課後は同じく航空兵学校志望を目ざした曽君と二人で、金棒大車輪、砂場で空中旋回を練習した、彼は少年航空兵学校にパスし日本まで來たがマラリヤ菌發見で送還され、復員後又師範学校の同級生となり中学校長になる。
入学して間もない4月18日に、一式陸攻で前線視察の連合艦隊司令長官山本五十六が米機「ロツキ-ドP38」に撃ち落され、ブ-ゲンビル島で戦死,公表されたのは
一ケ用後の5月21日で 「元帥の仇を討て!」と先生から気合が入れられた。続く5月29日に"海ゆかば”の後に悲壮なニユースが「アツツ島守備隊玉砕」と報じられ,玉砕は始めて聞いた言葉でした。
軍事教練の教官に近衛帥団出身の関口少尉がいた、筋骨隆々,頑丈な体で、威厳を張らず一般の軍人と異り、ある日上級生の喧嘩事件で、朝会全校生の前で二度と犯さないよう懇懇と戒しめた後
,これは教官の教育が致らなかつたので責任をとると言って戦鬥帽をぬき、号令台の角に向つて、頭をぶつつけ瘤ができた。この場面を見て僕等は粛粛と頭を下げ愛の教育に感動した。教練の時間には大胆にも
「アメりカを馬鹿にしてはならぬ、米人は冒険好きで彼等は単機で空襲、反攻上陸して来るかも知れない。安危をわきまへ、教練に精励し,強い体を鍛え,特に足を強くし万事に備えよ」と教 えられた。しかし「生きて虜囚の辱を受けず」との戦陣訓は強調しなかった。彼は台中霧社事件で日本軍が毒ガスで高砂族を殺害したと聞き、不満と怒りで志願し台湾の深き山奥で高砂族の教育に身を投じた立派な日本人で,生徒に尊敬され、戦後は南商の教え子が彼を台湾旅行に招き再会の喜びを共にしたのである。
夏休みの七月、台南市中等学校学生は,学徒勤労奉仕に動員され,強烈な太陽が照りつく38度前後の炎熱の下で、鍬のみを頼りに高い丘のあるでこぼこの練兵場を堀りならし、平坦な予備滑走路を作らせた。炎熱に耐えきれず遂に重い日射病にかかり、一ケ月病床生活。幸い母の温かき看護で,元気を取り戻し9月の新学期に登校出来た。今は亡きやさしい母に対し感謝の念でいっぱいです。
吾校は毎年の春と秋に台南州畜産会主催の競馬で実習があり、一年坊主の僕等は馬券賣りと傳票作製,上級生は統計会計処理をする、おやつと実習費が支給され、最終回の競馬も観賞出来るので実に楽しく,他校生に羨ましがられていた。戦火のなかった商業学校での一年生はみっちり基礎学問を身に付け、身心共着実に鍛
えられ,実りのある充実した意義のある学校生活の体験で、人生に大きく影響したのである。
【15】93銭の判子で決められた運命
連合軍の反攻は圧倒的な陸海空兵力と、豊富な資源と先進科学兵器に,物を言わせ日本軍守備隊を全滅に追いつめ島島を跳板に本土に逼迫して来た。昭和19年初戦火は末だ台湾に燃え移っていなかったが,新聞でマキン、タラワ玉砕、学徒出陣等で戦局の不利をつくづく感じさせた。その頃映画 [決戦の大空 ]が上映され、主題歌 [若鷲の歌]若い血潮の予科練の…"クラスメートと一緒に手をたたき乍ら声を張り上げよく歌った。相次ぐ航空戦でベテラン搭乗員は死に絶え,飛行機もほとんど失い補充はつかず、戦局の有利を挽回することで、航空兵力の増強と航空機増産、一機でも多く前線に送れと叫ばれていた。学校では「決戦の大空」「飛行機組立」の映画をとおし、先生はしきりに航空兵学校,及び飛行機生産の空C廠に志願するよう呼びかけていたのである。空C廠行きの海軍工員は海軍軍属の名目で派手に聞え、衣食住すべてが官費で,月給も支給,甲種工業学校の資格を得ることが出来、技師に升進出來る,今時代の波に乗り、戦列に加われば将来は偉くなれると、先生の甘き宣傳の言葉で、心は動揺。特に無賃で日本内地に行けるので、これに越したことはない。そこで適齢期になれば懂れの少年航空兵学校或は工科の学校に、親の許し無しで自由に志願が出来、願望が叶えると思い、数人の同級生が応募しているのを見て、遂に僕も志願書を書き提出した。英語の時間に,学級受持の先生でもある鈴木先生が教室に入るやいなや、僕の名を呼んだので吃驚して立ち上ったら「君、志願書に判子か無いが親の不同意か?」「いや」 嘘をついた。「じゃ今すぐ下宿に帰り判子を持ってこい」,授業中なのでびつくり仰天,青ざめて教窒を出ると、如何しようかと途方に暮れた。もし判子がなかつたら、大変だ。嘘つき野郎で厳しい先生の鉄拳制裁は免かれなぃ怖くなった。突然下宿附近四つ角に小さな判屋があることを思い出し、ゲートルを巻いた足でそこへ走った,ウインドを覗くと,同姓の判子が一つ有り,93銭でポケツ卜の一円を差出し釣銭を貰うと、早速学校にかけ足で戻り,待っていた先生が,「本当に親の承諾を得たのか? 」「はい」 とまた嘘つきをした一句で盲目に93錢の判子が押され,はかり知れない運命が決められたのである。
台南市公会堂で海軍軍医と係官の体格、適性検査をして合格通知を受取ったのは同級生の郭、黄君と僕の三人(黄君は中島飛行機で病死)。もう隠すことの出来ない一大事、長々と書いた手紙で事実を明らかにし不孝極まる無智な行為に対し父に謝罪と赦しを求めた。父にとっては晴天の霹靂で,すぐ台南にかけつけて来た。非常に失望した表情だったが、冷静な言葉で
「なんでこんな馬鹿な事をしたのか? 」 一人息子を遠い内地で苦労させまいと、すぐ下宿を出て東西南北と奔走し、交渉の結果一人息子且つ長男であるので免除許可。但し僕の意志によって最終決定となったので、父の依頼で小学校の恩師が下宿に訪れ説得に来たが、強情な僕は
「天皇陛下のお役に尽します」恩師はこの無智な言葉ですぐ直立不動の姿勢で 「よしわかった] すぐ回れ右で默默と自転車で去り行く後姿を見て,辛辣な思ひで心が痛かつた。馬鹿息子にあきらめた父は大変失望し心を痛め田舎に帰った。全く忠君愛国、大和魂を徹底的にたたきこまれた教育効果の露顕である。その時代その時を回顧すると、ひたすら戦爭完遂で行なった軍国思想教育は倫理を超越し青少年の心の奥深く浸透し本当に大変な世の中であった。
【16】何時も大事に見守ってくれた父との別れ
学校では朝会で,僕等の壮行会を行ない、校長先生から “南商の名譽にかけガンバレ” と激励の後,きれいな南商のバツジを記念として贈られた。僕の件は未決の為残され、彼等は台南区の集団と共に三月下旬、日本へ先立つた。僕は二年生の新学期を迎え、英語は新しいユーモアな先生にかわり、最初の授業に笑話で腹をかかえて笑わせた。商業英語はLesson lから面白く学校で継續して勉強したかったが、後の祭りで背水の陣をしいた今では空C廠行き以外に道がなかつた。
―人息子の馬鹿行動に痛く苦しみ乍らも、父の愛は変らぬ,遠く寒い日本へ行く僕の為に準備に忙しく動いていた。物質欠乏の戦時下,苦心惨憺して手に入れた用意周到な防寒の衣服、メリヤス、袴下、手袋、靴下、日用品等曾て日本視察旅行で買った純皮製のトランクと柳行李にぎっしりつめ込んだ、そしてその中に一冊の本,カーネギ著
”自己を生かす” が置かれていた,缺かさず勉学せよとの暗示である。
四月末集合通知で学校を離れるので・鈴木先生に別れの挨拶に行ったら,[君成績悪くないのに何故海軍工員に行くのか?]と聞かれ 敬遠していた厳しい先生と生徒の間にも解せない秘められた情けあり、感慨無量であった。
父は別れの日、身につけていた皮バンドを僕のズボンにつけかえた,岡山駅までわざわざ同行、到着手續を終え [元気で行ってこい! 体は暮々も気をつけ大事に] そして低い声で、潜めた最後の言付けで「航海は非常に危い、日本無事到着にはすぐに <着物送れ>と打電して帰れ、安否がわかる、無事を祈る」。「行って来ます」 握りしめた温い手を離し名残惜しく寂しく別れた。岡山は海軍の町で、一式陸攻の基地である、海軍航空隊と海軍61航空廠があり、集合した南開寮は全部竹材の假建築物で、海軍関係人員が海外行きの輸送船を此処で待つていた。その間晝間は炎熱なる太陽の下で基本訓練,暑くてのどが乾き、飲み水で数人が流行のアメーバ赤痢にかかり、岡山海軍病院で隔離治療、友達の羅君は目的を果せず
空しく不帰の友となり、遺骨をもらいに来た家族の姿を見て悲しくなった。 一ケ月足らずでしたが父は遠い田舎から当時珍らしく貴重な梨の缶詰を携さえ二回もわざわざ面会に来られた。初回は和氣藹藹と面白く語り合ひ楽しい―時を過ごしたが第二回目は出發の当日で、既に面会禁止だったけれど、特別面会許可の伝達があった。しかしもう最後の別れであることを知り、父と面会すると懺悔の痛みでとても耐え難いと思い、差入れだけはもらい拒絶した。失望した父が遠き寮の門前に立ち、呆然とこららを見ながら去って行く姿を垣根の傍にかくれ、じっと眺め寂しさと悲しさでいっぱい、ポロポロと涙が溢れ泣いた。その夜年輩の市毛海軍少尉に引率され、重たい荷物を背負い暗やみの中を岡山駅まで行軍、夜中の秘密専用列車で北上基隆港に向つたのである。頭の中には楽しい我家のことが走馬灯の如く浮かびよく眠れなかった。
【17】無念の覚悟 さらば故郷
汽車が早朝基隆港駅につくと迅速に下車、各自の荷物を背おい、近くの岸壁に停泊している大きな船に向って前進、船首に浅間丸とあり、乘船用の梯子をのぼると英文字で A Dcck と書いている上の甲板で下士官に導びかれ、床なき船室の地板に寢所を分配、毛布が支給され、寄せあつて寝ることになった。その時から海軍軍属としての生活が始まり、晝食は海軍食器に配ばられた大豆の入った飯に,おかずはじやが芋、すいたおなかは何に関係なく、おいしくきれいに食べつくした。航海中はじやが芋食の続き、船酔でほとんど食事出来ない人も出始めた。下午3時頃雲が垂れ曇っていた基隆港を、錨は引き上げられ、船はゆるやかに岸壁を離れ,港外に向つて走り出した。港外に出ると水上機一機が低く飛び警戒しており彼方に駆逐艦が見え,護衛任務にあたっていた。
僕達はデッキの手すりにつかまって、遥か東方に見える緑豊かな、美しき台湾本島の山々や島々がしだいに遠ざかって行くのを、名残り惜しく眺めていた。もう二度とは歸ることが出来ないかも知れない宝島、無念の覚悟で僕は小さい声で口の中でドイツ民謡 "さらば故郷”「此処に立ちて、さらばと別れを告げん,さらば故郷、故郷さらば」と別れを告げた。
浅間丸の乗客は空C廠行の僕等が主で,其の他は全部軍人軍属軍関係の人々でした。 完備したプール等の設備も物置場となり,物資が沢山積み重ねられており,海軍御用船として任務を遂行していた。突然船内の拡声器から,かん高い緊急集合の声が流れ、各小隊毎に甲板に集り、救命具が配られ,下士官指示の配置している救命ボートの前に整列、毎日退避訓練がくり返し行はれた。下士官の訓話で「敵潛水艦は虎視眈眈としてねらつている、基隆港外は特に危険水域である、航海中海上に浮上物やあやしげな物を発見したら早急に報告せよ!」船は敵潜の攻擊を避ける為ジグザク航法で針路西へ進んでいた、雲は低く垂れ下り、陰鬱な天気で,海上の風は冷たく肌にしみ、見渡す限り洋々たる海と、広々とした大空、地平線は一直線を呈し、何も見えない,突然思いがけない大爆音が三発響き,水柱が立ち船が大きく揺れた,大変だ!沈められるかと恐怖につつまれた。敵潜らしき物発見、爆雷を三個水中に投下、地点は琉球列島の西側,嘉義出身の仲間が、カバンの中から線香を取り出し、台湾の神に拝もうと、マッチで火をつけようとした瞬間,眼の鋭い下士官に見つけられ
「貴様俺達全員を死なすつもりか?火薬庫が近くにある,此の野郎!」と持つていた改心棒で容赦なく,尻に向け連続猛烈に痛くたたかれたので、台湾語で大声で母の名を呼んで泣き出した。始めて眼前で見た改心棒の威力と無情さ、海軍制裁の厳しさで身震いした。そして父が言ったとおり航海は危険であると、まともに体験したのである。幸い一路無事で船は小さな島がある水道を通り、ジャンク船が行き交い、中国服を着ている船人が、甲板に立つている僕等に向かつて手を振っている姿を見てほっとした。下士官は舟山列島と,教えてくれた、そして浅間丸は高い建物が遠くに見える上海附近と茶褐色の水面である黄河附近の大陸沿岸に沿って北上,荒波で有名な玄海灘を經て、下関から景色のすばらしい瀬戸内海に入り、三日三晩の航海で神戸港にたどりつき,安堵の胸を撫でおろした。検疫手続等で船上で暫らく待機、午后中ばに下船し、三ノ宮駅前の大きな広場のある大通りの道旁で荷物をおろし、地上に坐り休憩、関東方面行の夜行列車を待つていたので、荷物を仲間に見てもらい、すぐ近くにある電話局にかけつけ,父の言はれたとおりの暗号文で[着物送れ]と打電、無事日本に到着したと報せた。
その後父から[着物送った]との葉書で双方とも安心した。戦時中厳しい軍部の検閲を突破した父の着想に感服したのである。
【18】夜行専用列車、空C廠に向つて驀進
神戸に上陸後もっとも印象的なのは、台湾になかった電車と人々の身なりで,男は国民服に国民帽,ズボンには脚絆卷、女はもんぺ姿、一億国を挙げての戦いで戦時の雰囲気が濃厚でした。防
諜で僕等の移動はすべて夜間で、東海道線の夜行専用列車で横浜方面に向つて驀進、静岡附近で夜が明け,駅のプラットホームで "べんとう― べんとう―"と声を出し、車の窓ぎわに寄って弁当を売つていたので、三十銭で一つ買つたら,珍らしい小さな土瓶茶がつき,船内のジャガ芋つづきの食事に、飽きていたのでとてもおいしかつた。汽車は東に向け走り,美しい外の風景に富士山を見たかったが、曇り空で視界が悪く失望した。日本一の長い丹那トンネルを通つた時、皆が驚嘆の声を出していた。お宮の松で有名な熱海の海岸は、僕等の目を引きつけ、大船に差しかかると山の頂上に鎮坐している大船観音を、皆珍らしげに見上げていた。汽車は乗り替え,田舎の小さな大和駅で下車,荷物を背負い整列,新しい一本道は見たことのない黒い土で、足並そろえて行進,間もなく木造二階建が10数棟も立ち並んでいる海軍高座工廠(空C廠の改称)宿舎にたどりついた、此の寮は台湾少年工専用で、四面囲まれた杉林を切りひらいた広い土地にあり、五月と雖どもまだ肌寒く,水も冷たい、暑い南の島から来た僕達にはとても慣れなかつた。―日後適性検査があり、5月末以前に同船の仲間は各所に分配派遣された。
【19】航空機増産と台湾少年
航空機増産,総突撃で海軍は航空機生産工場の建設案で、国内の極端な労動不足 [内地では15才以上の男子はほとんど軍隊に志願か、軍需工場工員に徴用]を補う為,台湾で日本教育を受けた優秀な少年に目をつけ、内地に呼び訓練すれば目的を達せるとの構想で,当時長谷川清海軍大将が台湾総督をしてしいたので台湾総督府を通じ、宣傳募集、官費並び資格取得の好條件で大勢の志願者から 8000余人が選抜され、昭和18年5月から第一陣出発で数次に渡り、日本内地の神奈県高座郡につれて来た。僕は昭和19年5月浅間丸で来た最後の一期生でした。もともと海軍が期待していた局地戦鬥機 [雷電]月産500台の計劃が、振動やエンジン不調等問題で生産計劃が狂い、縮小されたので,生産要員として来日した貴重な台湾少年工は一部人員不足で惱む三菱、中島,海軍第一航空廠、空技廠等各飛行機生産工場に分配され派遣された。高座廠では台湾少年工によって生産された,局地戦鬥機"雷電"は128機を数え、厚木基地第302海軍航空隊に編入され実戦部隊の戦力を支え戦果をあげ記録された。
しかし三菱重工名古屋航空機製作所に派遣された約1240名で25名はB29の空襲を受け悲惨な戦死をした、又高座廠でも6人が犠牲になった。
【20】海軍航空技術廠に配属
5月下旬僕等80人は各自の荷物を背負い,数日しか泊っていなかつた高座寮を離れ、電車で追浜駅まで,30分程徒歩で海軍空技廠の宿舍木造二階建の町屋寮で落ちついた。寮は東京湾に面し、対岸は房総半島、風光明媚な所で、配られた第九寮は低い塀を跳び越すと海辺で、視界は広々景色は美しく、引き潮には立て貝がよくとれた。寮の二階は東大,横浜高等工業の見習学生が泊っており、一階に僕達が各室8人で入舍した。舎監は年配の林勇海軍大尉で親切な方でした。翌日木村寮長に引率され、元気で軍歌を歌いながら出勤,途中で人々が振り向き、若ぞうの姿を異様な目付きで見ていた。空技廠守衛室の前でタイムレコードのカードが渡され使用説明を聞き、入廠手續を終えた後、分配された飛行機部の各工場に案内引き渡され、僕を含めた10余人が第四工場の聞いたことのないガス熔接組に配置され、始めて熔接と言う職種がわかつた。鋸ぎり屋根の工場は明るく広い、東側一角の二階に事務所と食堂があり、真ん中の通路を境として右側に仕上組、左側に熔接組が同じ屋根の下にあった。熔接組の日本人熟練工は次々に応召され、作業台は空席だらけ、人手が不足していたので僕達の到来は大きく期待された。赴任翌日から午前は二階の食堂に集められ、技術中尉による飛行機に関する基礎知識,図面の見方等の講義が行われ、下午は現場で実習準備、熔接用の特殊メガネ(舶来品)工具、計器、吹管等が各自に支給され,取扱使用法について花形組長より説明を受けた。正式な実習に取りかかる前に先ず工場安全問題について、再三再四注意されたことは,火気厳禁である。それは工場鄰の単独建物に二基の大きなアセチレンガス発生装置がにあり、そこからパイプで各熔接台にガスを供給しているので、もし爆発でもしたら威力は 500キロ爆弾に匹敵するので絶対火氣に気をつけるよう,くれぐれも注意を重ねて言われた。そして次にカーバイトと水を混合しアセチレンガスを作る
方法及び取扱法、
保守和え萎靡整備の解説と実際操作が行なわれた。海軍航空技術廠は日本海軍のというより,戦前日本最大の航空研究機関であり職員1700名工員31700名、ここでエンジンの試作、審査,改造や整備,試作を発注した民間会社の指導監督、新兵器や特攻兵器の研究開発をしていた。その為東洋一の風洞実験室と水槽実験室等があり,人材設備は日本の最高級で比するものなく充実しており、工場管理も現代的管理を行なっていた。トイレまでが当時珍しかった水洗式でした。特に我等の関連した熔接設備も完備しており、工作台も廻転式で、どの角度からも自由自在に部品を熔接出来る便利な仕掛になっており,且眼の保護に使用した特殊メガネも舶来品でした。かように空技廠で培われた人材、技術は戦後には [ 銀河] [桜花] 等航空機から一転して東海道新幹線高速車輛 、羽田東京間のモノレール等鉄道と新境地を開いた三木忠直,エレクトロニクスのソニー会長井深大、盛田昭夫等各種の広い分野で日本の復興に大きく貢献した。
【21】海軍式管理の寮生活
木村寮長は艦船勤務帰りの若き一等工員で厳しかつた。胸の前にかけている海軍用のかん高い笛の音についてくる引き締まる号令は,緊張を脅くる"総員起し"の声は、迅速に床から跳び起き,掛毛布を一枚づつていねいにたたみ、押し入れに、服装を正し寝室真ん前の廊下に整列し点呼,5分内に一人でも遅れると,団体制裁で、腕立て伏せや対向ピンタがかかる。浜辺に出て海軍体操,輪になり大声を出して軍歌演習の「艦船勤務」「四面海なる帝国を守る海軍軍人は」
をよく歌った。夜になると点呼後に木銃を持ち不審番があり、二時間交代で寒い夜中に呼び起され引き継ぐのはとても辛かつた。甲板掃除とは板張の廊下に漏れた雑巾を両手にもち、かがみながら、ピーピーの笛に合せ、左右両足を交互に前進させ,板がぴかぴかになるまで磨くことで骨が折れる。寝室の整理整頓はきちんと清掃は窓わく戸棚、手すり等十分に拭かないと,手で触ってサラサラ埃があると、鉄拳制裁を喰ふ、所詮志願して来なかつたら? 自責の念に駆られる。
ある日盗難事件で寮友が10円札を盗まれた,寮長は怒髪衝天して怒った。犯人を締め出す為に、寒い雪の降る夜に,晝間の仕事に疲れきつた体を休め、すやすや夢の世界で,ぐっすり寝つている最中に、
一週間連続的に、夜中の12時に,わざと総員起しをし制裁、廊下で腕立て伏せ50回は足らず100回まで,尻が立つと,改心棒でたたかれ,続く対向ピンタ,「目をつぶれ! 盗んだ人は手をあげろ」 勿論犯人は寮内にいる筈がない、とうとう皆が耐えられず遂に声を出して泣き出し、この調子で制裁が長びくと,かわいそうで見ていられない、僕は犠牲を決心し、仲間を救う為に手をあげた。寮長はすぐに「床につけ」との命令が下り皆が窒に入り床についた。僕は寮長室に呼ばれ「
君が盗んだとは思はない、しかし君の犠牲的精神に感動し就寝させた、君も早く床につけ!」後日犯人は10円札の中に、暗号が記されているのを知らず、販売部で使用する時発覚され,寮外の人とわかり、処罰され事件は解決した。僕のことも上司の吉増輔導官に報告され,特に可愛がられ大事にされた。技術志望に夢を賭けて来た日本で,海軍軍人並の鉄拳制裁がある毎に、何時も何となく遠き島のスイートホーム、やさしい母の顔が浮かび幻滅の悲哀を味わった。唯一の慰めは寮友と共に休暇を利用し,附近の名所旧跡、鎌倉大彿見物や江ノ島海岸の橋から美しい富士山を眺め、
お互いに慰め、心の傷を癒した。
【22】徹底した技術訓練を受ける
飛行機部第四工場工場長は足立技術大尉で,温厚篤実な実践タイプの技術屋で一般軍人の横暴な振舞はなく、熔接技術関係では国內有數の権威者と聞かされており,工手も親切な技術屋でした。現場の責任者である花形組長は40才前後でやせて弱々しく見えたが、直接僕等の技術訓練に携わり,早く成熟するよう熱心に指導していました。故に僕達もまじめにみっちりと技術の習得に没頭していた。教程に基き実習が開始、裁断した約l5cmの実習用鉄板が木箱に,各作業台に配られ、第一歩として二枚の鉄板を、熔接でつなぎ合せる基本的動作から始まるので、先づ吹管に供給されたアセチレンガスと酸素の混合調節及び火力強弱の制御方法が教えられた。吹管に火をつけると、その説明通り操作し二枚の鉄板を平面に合せ継ぎ目に先づ熔接棒で三ケ所假付けをした後、熔接を完全に行う実習でした。そして引き継ぎL型、T型、三角、四角、円型と難度の高い熔接に進み,各段階が終了すると作品を提出,仕上組に委ね切断し断面のつけ具合が均衡に熔接されているか否かをはつきりと判別出来,又引張り試験をし力のかかり具合を測定すると熔接の結果がすぐわかる。その後組長の論評と指摘があり,改善方法が指導される。実習の過程については、実習材料も充分に與えらたので、思う存分実習が出来,且組長も常に巡り個別的に指導、徹底した技術が仕込れたのである。かような技術訓練方式は民間の学校等より優れた教育効果があり、早く熔接のわざを身につけることが出来て、航空機の生産につくことが出来た。飛行機の部品には熔接する個所が数多くあり、非常に重要な工程で、強度上飛行の安全にかかわり,注意深く丹念に熔接をせよと再三再四と言われたのである。一般並の熔接技術の訓練が終り高度の技術を要するアルミ等特殊材料の熔接課程に進み,成績によって僕を含む数人が特別指導を受けた。アルミ熔接は熱度の比較的低い火焔で熔接剤をアルミ熔接棒にぬり、早手で行なわないとすぐ穴がつき極めて難しかつた、この熔接は油タンクの製造に必要な工程である。集中的徹底して行われた實習が修了すると本格的に飛行機部品の熔接にとりかかった。実習期間の7月7日にサイパン島四万余人(民間人を含む)の守備隊が玉砕、8月初にグアム島、テニアン島も引きつぎ玉砕、絶対国防圈は崩れ始め、一億国民総武装を決定、竹槍訓練までがスタートした。
【23】極秘特攻兵器 [桜花] との直接関り
技術訓練が終ると、すぐ実地で飛行機部品の熔接に取りかかつた,組長も相変らず巡りながら、色々と配慮し指導していたので非常に有り難かった。学徒動員の千葉高女の女学生がもんぺ姿でよそから部品を持ち込んで来る。掛札には [MXY7] と明記されており,組長は当件については,必ず最優先且迅速に完成するよう命令されたのである。勿論 [MXY7] とは何か? 極秘の為、防諜で口に出すことは禁物だったので一般には知ることが出来なかった。女学生が次々と部品を運んで来る,定時間でこなせないので残業でカバーし試作に間に合せた。彼女達は年少な僕達が親元を離れ、遠い台湾からと知り,同情で田舎から食物をこっそりと置いて行くことがあり,同年輩の女学生を見て、学校生活が羨やましくなり,郷愁にかられる。
ある朝花形組長の呼び出しで,一類[極秘]、二類[秘密]工場内に出入出耒るバツジと"非常突破"と赤文字で斜めに印刷されている特殊通行証を渡された。戒厳令を含む如何なる時でも,この通行証で迅速に熔接の完成部品を試作組立工場に全責をもってとどけ,且絶対機密を保持するよう口止めされた。結局台湾少年で極秘の仕事に関わったのは,僕が唯一の一人で仲間も全然知らず、默々と命令通りにこの重大な任務に責任を果したのである。
[桜花]の試作機は、ガス熔接工場から電気熔接組の通路を通りぬけた、鄰近の工場で秘密保持の為、正門の大とびらを閉じ、そばの小ちな通行門には警備員が立ら、厳重な警戒の下で,組立試作をしていた。僕は [MXY7] の熔接部品が完成すると迅速にこの内部の通路から現場へ持って行った。一番最初は円い胴体しか見えなかったが、部品をとどける度ごとに,主翼や尾翼がつき・飛行機らしく成っていた。
[桜花] は全長6.07メートル、全巾5メ一トル、全高11メートル、主翼面積6平方メ一卜ル、全備重量2140キロ、自重440キロ、尾部ロケツ卜360キロ翼下ロケツト140キロ、前頭部徹甲爆弾1200キロ、操縦席は前頭部爆弾のすぐ後に、窮屈そうに設けられていた。常に部品を現場にとどけていたので、組立をしている人達とは顔なじみなので、組立梯子をよじのぼり,[桜花]操縦席の内部を覗くことが出来、座席まわりの操縦桿と、前側のパネルには速度計、高度計等数個の計器がついているだけで印象的でした。
[桜花] は母機一式陸攻の胴体の下腹に、吊り抱いて飛行する懸吊装置があり、有効攻撃距離で切り離し、ロケットの推進力で、前頭部に装備している1200キロの爆弾で、敵艦船に向つて突撃体当りする。この懸吊装置は鋼管で折り曲げ、浅い逆U字型に加工され、すべての接ぎ目は全部ガス熔接で堅固にしっかりと施工する重要な工程で,工場長、工手、組長が現場で慎密な技術な検討がなされた後、組長自づから熔接するので、僕が助手として選ばれ、吹管に火を飛ばし、パイプを加熱し、預熱を與え、組長が無難なく熔接出耒るよう支援した。完成後早急に試作組立現場に運ばれ、テストされた。「桜花」
は一般の飛行機と異り、操縦席前の前半部は火工部で用意した爆弾体を、爆薬や信管を適宜装着でき、自由に取り外し出来る金具で取付けられる。むしろ翼のついた爆弾と称してもよいもので,開発条件や材料装備も簡單、翼も木製であり,且皆至上命令で取りこんでいたので、試作機は早く九月上旬には完成、そして組立儀装完了後,頭部の両側には,潔よく散ってゆく姿の「桜花」は桃色の五弁が描かれていた。
【24】特攻隊代表、 「桜花」 試作機を検閲にくる
[桜花]試作機完成後、勅使と特攻隊員代表が本工場に訪れるとのことで、組立工場は立入禁止がしかれた。当日午後、特攻隊員代表二人は、予定どおりに [桜花] 組立工場に來訪した後、内部の通路から僕等が作業中の熔接工場に入って来た。絹製茶褐色の特攻隊飛行服に、首まわりは絹の白いマフラー、中央に日の丸のついた鉢巻を頭に縛っていた、若き士官と紅顔の美少年下士官が,直立不動の姿勢で,作業中の皆の前で
「皆様ご苦労さまでした!今から敵撃滅に行って来ます」右手をあげ海軍式敬礼をし去って行く健気な姿を工場
員が立ち上り、寂しく惜しみながら手を振り見送った。特に下士官特攻隊員は18才前後に見え、僕の眼前に立っていたので,軍国少年が若桜となり散って征く痛々しい別れの辛さに涙ぐみ,今でも印象深く記憶に残っている。僕も憧れた飛行兵になっていたら恐らく同様な運命で靖国神社で護国の鬼になっていたでしょうか?
【25】人間爆弾 [桜花] 開発のいきさつ
サイパン島玉砕後戦局は更に悪化、米機動部隊はますます日本本土に迫り,特攻で敵を屠り,体当り論者が勢いを増していた時折に、南方前線で約一年半苛烈な航空戦をまのあたりにし、日本軍航空機の劣勢と熟練搭乗員不足で敗色が濃くなって行く有様を見、厚木基地に帰つて来た、下士官上りの古参偵察員大田正一特務少尉がいた。彼は難しい空戦技術がなくてもたやすく戦果が出る特攻兵器人間爆弾 [桜花] を発案し航空技術関発センタの海軍空技廠にもちこんだ。廠長和田操中将は、設計主任山名正夫技術中佐と、開発機担当の三木忠直技術少佐を廠長室に呼び,大田少尉の説明を聞いた。三木少佐はたとえ―発必中の期待が出来ても,搭乗員の死が確実であり,全く生還見込の無い兵器を作ることは,良心と技術の冒涜であり、人道的にもこの発案に反対したが、計らずも大田の着想が軍令部首脳に傳へられ,丁度捷號作戦をひかえていた最中なので、軍令部会議で開発許可となり、航空本部から、空技廠に研究試作を命じた。そして着想者名前の大を取り[マルダイ]部品,と秘匿名称をつけ、試作番号 [MXY7] と決まり、三木忠直技術少佐が廠長窒に呼ばれ、試作命令を受けた。三木は不本意なる開発設計主務者に指示され、致し方なく軍の掟で上からの命令に絶対服従で、暗澹たる気持で割りきった。そして三木技術少佐以下10数名によって編成されたチームは空技廠舍に極秘で設けられた一室で、缶詰状態で徹夜につぐ徹夜で設計が始まり,約一週間で部品の仕様がまとまり、実験用の翼をととのえ8月25日風洞で揚力、抗力、横振れモーメント等各基本データ測定を終へ,設計開始後で丁度10目でした。9月初旬には試作機を完成させ、10月31日には相模湾上空で有人離脱試験に成功、そして11月には鹿島湾で起爆試験で確実な成果を確認した。斯くして[桜花]の開発は成功の内に一段落した。
但し終戦50数年後の2002年逗子で92才の三木さんとお合ひした時、終戦で生き抜く精神の寄り所を失い、母と妻のすすめで敬虔なクリスチヤンになり,素朴な信仰生活を幸せに送っていたが極力反対した [桜花] の開発設計で、三木さんとの話で、心中未だ割り切れないものがあると感じた。 [桜花]の苦い思い出から,戦争に関連する仕事は一切しないと心に決め,飛行機の技術を活用し、モノレール及新幹線高速車輛を開発、鉄道に新境地を開く戦後の日本復興に大きく貢献した。敗戦で米軍が日本に上陸し特攻兵器の調査で[桜花]の極秘資料を獲得、その後1947年10月、史上最初の超音速を行なった試験で、米空軍は [桜花] そっくりの方法を借用,母機B29に子機「X1」ロヶツトを吊り下げテストをした米空軍の記録映画が残されている。破損の [桜花] は沖繩戦場で米軍に鹵獲され、最近日本に返還、復元された唯一無二の一機を [入間航空博物館] で見、再び梯子をよじ升り,操縦席の内部を覗き,昔直接関わったことを思い出し万感胸に迫り,感慨無量でした。
【26】[桜花] 量産始まる、特攻部隊訓練開始
航空本部は設計試作完了の報告を受け、100機
を早速空技廠に極秘の量産を発令した。生産主務に任じられた西本木造中佐相等官技師は、第一工場で軽合金材料で円筒形の骨組を作り、軽合金薄板を張った軽合金胴体を作り、第二工場で木製の主冀、尾翼を組立これに第一工場より運ばれてきた胴体に金具を抱かせ組立上げ、続いて火薬ロケツトを尾部、及主翼左右下側に各一本づつ装着、前半部に金具で爆弾体を取り付ける。量産開始して間もない9月28日の夜中に、横須賀軍港に面した第四工場に火災が起き,陸上と海上からの消火、約二時間で鎮火、早朝出勤すると,近くにあった現場へ野次馬見物に行ったら,縄が張られ、海上消防船からまだ断続的に水をかけていた。但し一人の死者を発見、スパイの放火と流言蜚語があったが、戦後この事件処理で直接かかわった吉増輔導官からの話では夜業で班長が私物石けんを作っている最中、不注意で暗幕に着火、消そうとしたが火花が作業服に燃え移り、全身黒く焼け焦げて、悲惨なありさまと言っていた。幸い鄰の組立工場は全部無事でしたので[桜花]の生産に支障はなかった。量産で次々と持ち込んで来る、部品の熔接は残業でも間に合わず、徹夜の突貫作業が命令された。その為熔接工場内西側の一角に、木材で組立た三畳の簡便な假床を作り、夜中12時の間食後、暫らく30分前後假寝が許され、起きると継続に作業が早朝7時まで続き、寮に帰り半日休み、下午再び出勤交代で晝夜兼行の作業が行なわれていた。輔導官も夜間巡視で,僕達が徹夜でまじめに[桜花]の仕事にとり込んでいる苦労を見て,海軍用の乾パンをおやつとして励ましてくれた。[桜花] の突貫作業は期限時間内に必ず部品の熔接を完成し現場にとどけることで,組長は厳しく督促していた。10月12日台湾沖航空戦で、台湾が空襲を受け大被害が出たとの新聞で、仲間と遠き故郷の父母兄弟の安否が気掛りで、午后数人が作業現場を離れ,ガスタンクの後にかくれ、悲しく泣いている場面を艦船勤務「赤城]から帰還した、新赴任の石川伍長(副組長)に見つけられ、「君達何んでここでさぼっている,仕事が急がしいのにわからないのか?」と組長に報告、全員集合で団体制裁、ガス用ゴムホースで尻を痛くたたかれ筋数本が張り、現場にもどり作業を継続した。遠い台湾の親元を離れ,国の為まじめに働いている吾等に,何等理由も聞かず、制裁をするとはあまりにも無情で、皆くやしがった。当日僕は徹夜殘業で工場宿り、仲間はうっ憤をはらす為、暗闇の中に自転車で帰宅する組長に石を投げ,不満を示し吃驚させた,翌日組長が僕を呼び出し,石を投げたのは誰かと追究したが,寝耳に水で知らないと答えた。其の後管理態度が一変し良くなり、石川伍長もしばしば僕の耳もとで
”蘇州夜曲” を聞かせてくれることがあつた。
[桜花]の部品熔接で熔接剤配合用のガラス瓶が割れて、左手小指に大怪俄をし医務室で軍医中尉から麻酔もかけず,三針縫られ痛みをこらえ、泣かなかったので軍医が親指を立て、勇敢な少年
だと慰さめてくれた。そしてすぐ工場に戻り、休まず平然と[桜花]の仕事に取りかかつたので,僕の仕事態度が輔導官に報告され褒められ可愛いがられた。傷痕は残り思い出となっている。
一方昭和19年10月1日に、[桜花]専用特攻部隊を 第721海軍航空隊と名づけ、岡村基春大佐を司令、岩城邦広少佐を飛行長、野中五郎少佐を陸攻隊長として発足、岡村司令の発案で疾風迅雷 ”じんらい” の発音から海軍神雷部隊と呼び11月7日から鹿島灘を望む、茨城県神の池基地を,[桜花] 専用訓練基地として、本格的な猛訓練が始 まっていた。着想者大田正一少尉は熱望の[桜花]に乗りたがったが搭乗員資格無い為、[桜花]の実效を確認する役についたのみである。
【27】世界最大の空母「信濃」、搭載の[桜花]
敵潜に撃沈される
昭和19年11月28日 火曜日、追浜の秋空は薄雲が少しかかった澄み渡る大空でした ひる休み,飛行機部の東岸壁に面した大広場から東方の海上を眺めていたら、沖合に巨大な航空母艦の全貌が眼に映り、僕は世界最大の空母信濃の雄姿を見た。僕は実際に [信濃] を見た少数の一人で、無敵日
本海軍の誇りを覚えた「信濃」は横須賀海軍工廠の三方に、トタンなまこの板塀と天然の懸崖絶壁で隠蔽されだ六号乾ドックで極秘建造された。 71000余トンの世界一巨艦で,[信濃] の存在を一言でも洩らす者は即決処刑と警告され、厳しい防諜措置の下で造艦していたので,その存在は全く外に知られていなかつた。「信濃」は未完成の個所が相当多かつたが、大本営では11月24日米軍初の日本本土大空襲で,[B29]爆擊機数百機余りの大編隊で、東京郊外の中島飛行機製作所エンジン工場を急襲したので,横須賀地区空襲も間近にあると予想[信濃]も危険にさらされ,空技廠でせつかく出来上つた[桜花]の機体も無事ではすまないので、急遽四日後の11月28日に出港、呉軍港に退避させ,そしてそこで残工事艤装を終らせることに決定した。―方呉海軍工廠では12月上旬を目当に、[桜花]をフイリツピンと台湾に送り出す手配で、100機の機体と量産中の徹甲弾頭とを合体させなければならないので、[信濃] の呉回航は全く良き機会で出港前日まで100機そろへて便乗させることになった。 [桜花] は完成後空技廠飛行機部で収納する場所がないので、すぐ飛行機が運んで行ける臨接した鄰の橫須賀航空隊格納庫に移され,梱包して積荷が出来るように待機していた[桜花]を当初100機を[信濃]に積み込む予定でしだが、積荷作業が錯綜し50機しか積めなかつた。
11月28日下午l時すぎ [桜花]を積んだ [信濃] は東京湾で実習訓練しながら,南下し日没1時間後外洋に出,歴戦の駆逐艦 [磯風] [浜風] [雪風]。三隻に護衛され,航路は伊豆七島沿いに南下し紀伊半島を迂回し瀬戸内海に入る予定でしたが、29日午前3時10分、米軍潜水艦[ARCHER FISH アーチャフイツシュ] の魚雷攻撃で4発は船体右舷側に命中爆発,海水がなだれこみ、勇敢な乗組員が浸水を止めようと必死奮鬥したが,不幸にも同艦は未完成状態で乗組員も乗艦してから日が浅く各装置の操作も未熟で応急処置に欠け、被雷後約7時間後の午前10時50分に[潮ノ岬]に沈没、艦長阿部俊雄大佐以下1435人は艦と共に沈んでいった。駆逐艦によって救助されだ1080名は呉近くの三ツ子島の伝染病患者用隔離兵舎に収容され,後にフイリツピンと沖縄戦線に派遣され、かなりの人数が超戦艦[大和]に転任させられ戦死した。その中で空技廠の三好技術大尉数人はここで終戦まで過ごした。
海軍は [信濃] の大慘事を隠そうとし、駆逐艦乗員の上陸も許可しなかつた。かように多大な国費と時間労力をかけた世界最大の空母[信濃]
は処女航海僅か13時間余で、小さな2000トンの米軍潜水艦の餌食となり、多くの人命を犠性にし、期待をかけた大切な特攻武器[桜花]も海底の藻屑となり、悉く水泡に帰したことは、日本海軍にとって最大の悲劇であり、衝撃であった。
【28】[桜花]輸送中、又敵潜に撃沈される、大挫折
[桜花]の海没後、航空本部は急遽,空技廠に対して追加生産を命じた。その為僕等は又突貫作業で忙殺したのである。そして空技廠で取急ぎまとめた新規の[桜花]機と積み残りの50機を合せ、12月1日呉軍港へ陸送し、比島のクラークに 30機、台湾の一式陸攻基地高雄の岡山海軍航空隊に50機送る予定を組んだ。[桜花]は空技廠で合計201機(内―機実験用)で生產を打ち切り、練習機の生産だけ残し、霞ケ浦の海軍第一航空廠が引きつづき、終戦までに約750機が生産された。
12月17、18日[桜花]を積んだ空母[雲竜] [竜鳳]がフイリッピンへ急行することになり、前後に相次いで佐世保、呉軍港から出港したが雲竜は19日午後4時すぎ宮古島北西附近で,敵潜水艦[レツド フイッシュ Red Fish]の攻擎を受け沈没した。その為下関海峡で待機していた[竜鳳]は、目的地を当初予定の台湾にもどし、東支那海を強行突破、1月7日基隆港に無事到着、[桜花]50機は高雄の岡山航空基地近くの、東方の山に準備されていた横穴壕に格納された。
【29】比島レイテ湾決戦、[桜花]への期待幻滅
レイテ沖海空戦で制空、制海権とも完全に米軍に握られ、航空支援が得られず、誇る[武藏]を含む戦艦3隻、空母4隻、重巡6隻等艦船29隻を失ない,捷一號上陸阻止作戦は失敗,19年10月17日米軍は20万の兵力をもつてレイテ湾上陸開始,司令長官大西滝治郎中将は,強力な米軍機動部隊に対抗出来ぬと悟り爆裝戦鬥機で体当り、体当りは以前にもあったが,何れも被弾墜落で個人の意志によるものでしたが、血路を開く以外に道無いと決意、生還を期せない体当り攻撃方法を考え,神風特別攻撃隊を編成,10月25日零戦に爆弾を抱かせ,敷島隊5機、菊水隊2機、初の持攻を敢行し,体当りで空母一隻撃沈、四隻に損傷をあたへた。但し戦争指導部の人達は、1200キロ徹甲爆弾を有する強大な破壊力をもつ [桜花] の戦線投入に,戦局の挽回に切なる期待があったが、望みをかけた [桜花」の輸送は [信濃] [雲竜] とも敵潜の襲撃で失われ、大きな挫折になり幻滅となった。強力なる米軍は昭和20年1月9日レイテ湾より北上,ルソン島のリンガエン湾に上陸、クラーク入口に殺到,翌未明に大西長官以下の第一航空艦隊幕僚もクラ一ク基地から空路で台湾の高雄航空隊に移った。そして比島の陸上戦も山中ゲリラ戦に移り終幕が見え,台湾からフイリツピンの[桜花]攻撃も断念された。
【30】鳴呼悲壮![桜花]神雷特攻部隊の
悲しき初陣
戦況は米軍の日本本土進攻と推定、1月20日豊田連合艦隊司令長官は神雷部隊とT部隊 (T部隊のTは台風の頭文字をとり,夜間や荒天に雷撃を加える部隊)に北九洲方面への展開を命じた。そして神雷部隊本部を大隅半島の中ほどの位置にある鹿野基地に設けられ、主力をここに、宮崎と大分県宇佐基地に各配置し、第五航空艦隊司令長官
宇垣纏中將 の基幹兵力となった。
3月17日硫黄島守備隊全滅玉砕。[桜花]は海軍特攻専用機の兵器として採用、沖縄海域で3月21日 木曜日 午前8時10分索敵で発進した彩雲偵察機から敵アメリカ機動部隊を発見、南下を続けている報告が入り,宇垣長官は[桜花]の攻撃準備を命じた、午前11時20分 一式陸攻18機に[桜花]を抱き、隊長野山機を先頭に鹿児島上空に向って飛び立ち,掩護戰鬥機が下層で19機 上層で 11機,高度は13000フイートを南へ進み、沖縄海上の敵艦船を目がけて肉迫した。しかし,[桜花]特攻機編隊は米軍のレーダに発見され,グラマンF6F 48機が空母[ホーネット]及び[ぺローウッド]から発進,上空で待ち合せ強襲し、射程内に達する前で全数撃墜され,全滅の悲運に遭い、作戦当局を啞然とさせた。命令とはいえ,無謀な攻撃をさせてしまった,岡村司令の自責は,胸中燃ゆるように痛烈な思いでした。翌22日に戦訓會が開かれ、今後はレーダの露見を避け編隊攻撃を中止、敵戦鬥機の行動のゆるい薄暮や早朝、明るい月夜を利用し単機奇襲に切りかえた。
【31】「桜花」の威力、米軍を震憾させる
[桜花]攻撃の破壊力は一般特攻機のくらべにならず強烈で大きかった。[桜花]にねらわれた,米軍駆逐艦 [マンブートエ―ブル] は突入された瞬間大爆発、船体は真二つに裂け僅か三分で沈没、死傷者114を出し、別機の[桜花]は掃海駆逐艦 [ジヱフアース] に突入したが,命中せず右舷50ヤードの海面で爆発した衝撃で上甲板を突出させた、敵駆逐艦米軍NO.DD540の[Mullany]も[桜花]の攻撃を受け死亡2人、行方不明9人、負傷35人戦鬥力復帰不能になつたが奇蹟的にも自力で数千マイルのサンフランシスコまで帰り本工廠で修理、1971年台湾の中華民国海軍が買入れ [慶陽] と名付けられたが,修理の傷跡がはつきり残っている。
米軍は空からの人間爆弾攻撃は通常の防衛の限界を越え,被害も普通の航空爆弾の比でないと[桜花」攻撃の脅威を認め,各将兵に注意を促がした。[桜花神風特攻隊]は米軍を震わせ、非常にこわがらせ、此の兵器の殘酷さと,恐ろしさから [馬鹿]と名付けられた。
米軍は特攻機と空からの攻撃に対して,VT(Variable)信管づきの砲弾を使い、命中しなくても20メートル以内を通過すれば爆発し敵機を撃墜する新兵器と高性能レーダ及びグラマン邀撃戦鬥機で、完壁に近い防禦網を張りめぐらし強固に防備していたので[桜花]特攻機が熾烈な砲火をくぐつて行くことは至難でしだが、それでも沖縄戦で特攻機による沈没した敵艦は15隻、損傷のべ192隻あり、空からの特攻は確かに敵米軍に膽をぬき怖がらせ、大きく動揺させた。
[桜花]実戦の戦訓で、敵陣に到達する前で撃墜きれ,予想外に戦果が上らなかつた原因に[桜花]の重量が母機一式陸攻の性能低下になり、且[桜花]には自力飛行能力がほとんど無く、致命的欠陷であることが解明された。その為母機を高性能の[銀河]にかえ、新開発のジエツト方式初風ロケツトと増速ロケットを取りつけ、航続距離を伸ばした[桜花2型]の改良に空技廠で努力したが、惜しくも実用に漕ぎつけず終戦になった。
【32】特攻機に、命を賭けた武士の悲憤なる最後
1945年8月15日大分は快晴、正午玉音放送で、宇垣長官の両眼に涙が溢れ落ちた。午後5時長官は中津留達雄大尉操縦の慧星機の後座、遠藤偵察員の座席に一緒に坐り、11機の慧星艦爆隊員と共に南の夕空 へと飛んで行った。7時24分訣別電報が入り消息が絶えた。
米軍記録では当日体当りされた艦船一隻も無かった、だが沖縄の伊平屋島に一機落ち焚焼,三死体が発見されている。宇垣長官が玉音放送で大命を承知しながら一人で自決せず,私情で部下を道づれ死んで行った情なさに,上層部の論議を呼び、戦死一階級昇進も出来ず中将のまま据え置きされた。宇垣に殉じた16名の特攻戦死者も一階級のみ(特攻戦死者は二階級昇進)の昇進にとどまった。特攻の父大西中将は、翌8月16日の夜半,次長官舎で古武士の如く割腹介錯を許さず、特攻隊員の苦しみを少しでも長く味わおうと,最も苦しい死に方で苦しみ抜いて絶命したと言う。[桜花]発案者大田少尉は多くの若い命を死地に投じた事実と、戦争犯罪人に糾弾されるかも知れないと―人悩んで,8月18日の晝整備してあった、零戦練習機<722―5>に飛びのり、鹿島灘の沖合に消えて行った。しかし捜索結果消息が無く,死亡と認定戸籍から抹消されたが、後日戦友からの噂話で、大田が松島附近に不時着、まだ生きていたとわかり,長い間大田の足どりを追っていた、歴史学者秦郁彦氏の証言で無籍偽名で過し, 1997年の開戦日同日の12月8日,82才癌で死去したという。
【33】東京大空襲見聞記
サイパン島が玉砕、米軍「B29」の前線基地になると、爆弾、焼夷弾をかかえ一気に日本本土まで2200余キロを、連続1万メートル以上の高空から空襲にやって来た。 その為空技廠と追浜飛行場滑走路南端の連なる低い山には、緊急地下工場と地下格納庫の工事を始め、海軍施設部の朝鮮徵用勞動者がダイナマイトで山を爆破、洞窟内の土をトロツコで運び出す作業を急ピツチで進めていたが、時局の緊迫で工事を早める為、人手不足で3月初め各部署から、残業無しの人各一人出し、夜間に洞窟内の土を外への運搬作業に任務として課せられることになつたので、3月9日夜僕が当番にあたつた。
積上げられている土をシャベルで台車にいつぱい盛り上げ,夜中12時過ぎ(10日未明),洞外に押し出すと強い北風で寒く、東京方面の空は真赤で爆発音が絶え間無しに響いてきた。
目を東京湾の対岸、房総半島に移すと,南端からB29が間隔を置きに次次海を平行に今まで飛んでいた1万メートルの高空と異なり、機体が大きく見える低空で、機首を帝都東京に向け大空襲を行なっている。探照灯に捕捉された敵機は瞬間にきらりと光ったかと思うと,「B29]から強力な機関砲の赤い玉が地上に降りそそぎ探照灯はすぐ消えた。同じことが何回も行われていた,地上からも高射砲がうなりをたて、對空砲火を浴びさせていたが、ほとんど命中せず[B29]が空からの集中攻撃で沈默させていた。不幸に命中された[B29]は火玉となり、東京湾の海上に墜落し,水上に落ちた瞬間、大きな火花がパツト四方八方に飛び散り,消え沈みかけて行く光景は、花火の如く華麗で見事であったが 夜空は空の相互射撃で、曳光弾、砲弾等の光で長く尾を曳き、恐怖の景観

を、もたらし追浜で始めて自分の目ではっきりと見た。その日の空襲実況は,戦爭映画に出てくるシーンの如くそつくりでした。翌日の新聞二ユースで[B29]延べ300余機東京大空襲被害甚大なりの発表にびっくり、日曜日休暇を利用し上野、浅草に行ったら
、浅草東本願寺だけが残っているだけで、見渡す限り一面焼野原で、樹木は全部焼け焦げ、 附近は完全に廢墟となり、川には黒く焼けた死体の腹が膨れ上り、数人が浮き上つており,死臭は強く、鼻をつまんで通りすぎた,この悲惨なありさまを見て、人間地獄の悲しさと戦爭の残酷さをつくづく痛感した。附近では悲しく困った表情で、燒跡に呆然と立つている多数の人が見えた。本当に見ておられず、怖くなりすぐ追浜の寮に帰った。この目で見た東京大空襲の惨状は永遠に忘れられない。発表によると、2時間22分にわたって行われた3月10日の世紀東京大空襲は,「B29」 325機、投下された新型焼夷弾 M47 M69は1667トンにのぼり、死者8万300人傷害者10万2057人、人類歴史上の一大惨事とも言える。
【34】横須賀要塞地区にも空襲開始
東京大空襲の教訓で工場内の中でコンクリート1mの地下に防空壕を急きよで構築した。足立工場長が特に全員を集め、東京大空襲を例に,危険きわまる新型焼夷弾の防護対策方法、及び空襲警報の時はすぐ防空壕に待避するよう訓示があった。四月―日には米軍が日本本土侵攻の第一歩として、18万人の兵力をもつて沖縄本島に上陸、4月7日 6万9100トン、主砲46センチを有する巨大なる戦艦[大和] は九洲南西洋上で米軍の強力なる航空攻撃隊の猛攻擊で擊沈され、l0隻の海上特攻隊も全滅。
5月7日には同盟國ドイツが無条件降伏し、時局は更緊迫を極め,今までほとんど[B29]の空襲がなかつた横須賀要塞地区にも五月に入ると[B29]が高空で飛行雲を引き偵察に来た翌日には必ず[グラマン]、[P5l]戦鬥機が東京湾海上方面から低飛行で追浜飛行場や空技廠を襲ひ機銃掃射、爆弾投下し被害を與へて急上昇で逃げて行く。
空技廠本部廠舍の屋上に架設していた高射機関銃が、[グラマン] 一機撃墜、パイロツトは落下傘で近くの海上に脱出したが捕虜となり、日隠しされ憲兵のサイドカーで、連れさられて行く所を皆が拍手で見ていたが、翌日の正午大群の[グラマン]が,海上から低空で来襲、その中の一機は花束を海に落し、群を成し屋上の高射機関銃陣地を目ざし、集中攻撃で復讐、全員戦死した。その数日後熔接工員と木工工場の中間にあるメイン道路に500kと思


われる爆弾が落ち大きな穴があき、幸い皆場内の防空壕で待避してぃたので全員無事、施設部の人が退勤前には既に爆彈落下の穴を埋立てていた。今まで空襲はこわくないと豪語していた上海で歴戦帰りの年輩一等工員が待避せず、その爆風で10メ一トル先に吹き飛ばされ、幸いかすり傷でしたが、その後警報あるごとに真先防空壕に飛び込んでいた。
敵機[グラマン]と[P5l]は電波探知機の死点をとらえ,東京湾の海上から低空で単機或は二、三機で来襲するので、敵機が襲った後で警報が遅れて鳴ることがある、或る日午后の出勤でタイムレコードを打ちこんだ後,熔接工場に行く途中に空襲警報がなかつたのに、海上から真正面に[P51]が単機低空で飛んでくるのを見て、すばやく木材置場の大木が積み上げていた、木材の空間に潜りこみ退避した。かくれ乍ら[P51]をこわごわ見たが、茶色の飛行帽をかぶつたパイロットが機銃掃射しながら逃げて行く様子が見え,,,,もう命が無いと思った。這い出し立ち上って見たら、50センチ近くに長い一列の弾痕あり、命拾いしたと冷汗を掻いて呆然と立った。かように警報無しで低空で襲って来る敵機[グラマン]と[P5l]は非常に恐ろしく、こわかったのである。 7月末空技廠南鄰の横須賀軍港に戦艦長門が入港停泊していると,翌日[グラマン]と[P5l]戦鬥機が群を成し急降下で猛攻撃長門の船体が傾き行動不能になった。
【35】凍傷、風み、大豆粕食事
四月の追浜は数十年ぶりの大雪で,工場の門もスコップで除雪しないと出入できなかつた。年輩の工員は今年中に何か大事あると冗談半分に言っていた。その頃僕等の靴や靴下はボロボロ、履き物は下馱だけで,それも完全なぺアでなく、片ちんばで左右不揃のもの、素足に下駄をひっかけて凍る道を徒歩で通勤
凍傷、あかぎれで足が痛く腫れる惨めさと、 台湾で味わったことのない虱攻撃である、虱は服の縫目、パンツに秘め陰部まで襲う,熱湯でも除去出きず、空襲と虱の双方攻撃で睡眠は十分に取れず、特に虱つぶしに大変でした。工埸は残業に又殘業を重ね、睡眠不足で身心共に疲れいるが、国を挙げての戦いに、飛行機を一機でも多く增產し前線へ、勝利の日まで我慢に又我慢。
6月23日沖縄守備軍牛島司令官自決、日本側死者24万4000余人を出し、米軍に占領され、補給線は完全に封鎖され
断ち切られた。欠乏していた食糧危機を更に一層深刻化させた。7月に入ると主食は米一粒も入っていない大豆粕の水煮に、おかずは回蟲駆虫剤の海人草,食べるとおなかはゴロゴロなり、屁をうち腹具合がおかしくなる。仲間が機械工場からこっそり、人手した白締油で炒めたのを、食べさせてもらったが、変な味と雖ども無理して口に人れ餓を止めた。かつて[桜花、秋水の特殊仕事で、特別な食券をもらっており、外の海軍指定食堂でおいしいものを食べることが出来、又水交社で日用品を買うことが出来たが、もうその時分は食べ物もなく,無きに等しかつた。塩味なきかような食事が終戦まで続き、顔色も黄色に呈し元気がなくなっていた。
【36】特異新式戰鬥機[震電]と撃墜の[B29]
海軍空技廠は日本最大の航空機研究機関の為,東京湾に面した岸壁附近にある飛行機部の大広場には飛行機が、ここで試運転、審査が行われている。丁度熔接工場の近くにあるのでその都度に見ることが出来た。特に印象に残つたのは格好が普通の飛行機と異なりプロぺラが逆の後方にあり、尾翼はエンテ型双垂直の前翼式局地戦鬥機[震電)であった。発動機テストで先ずまわりに消防人員が消火器を手に、左右兩側に各10人が配備され待機していた。エンジンが起動すると低速から徐々に上げ、計測員が3000と声を上げてまもなくすると発火,消防人員はすかさず消火器を発火点に向け、一斉に吹きかけ火を消した。時速405㎞の速い
記録を出し、機体全長9・6メートル、全巾11.1メートル,前方には大口径火砲が装備可能で期待されたが、8月11日初飛行で,まもなく終戦で残念に終った。
ある日撃墜したボーイング[B29]が大広場に運んで来た。今まで見たことのない大きな巨體にびっくりした。主翼尾翼とも切れかかり、ついていなかつたが,機首と胴体はあまり破損していなかつた。関係の技術士官が梯子でのぼり、B29機首の内部に入り、調査にあたっていたので,僕もそれに乗じ、機内に入って見たら,日本の飛行機と異なり、内部は広く,操縦士席が二席あり,座席の後がわに厚い防弾装置があり,前がわには操縦桿、計器パネルに数多き計器があり,充実した数多くの設備に目が眩んだ。開発費用30億ドルを費したB29は,全長30.19メートル(現在の旅客機ボーイング727全長46.71メートル)前主翼の翼長43.08メートル、最高時速600㎞、、巡航時速約400㎞,装備火器全部で13挺、機関砲を縦横発射指令出きる、中央コントロール システムとコンピュータ式照準器・爆弾搭載量2・26トン可能,機内には気圧を一定に保つ与壓装置があり、飛行高度1万メートルでも酸素マスク不要、レ一ダ―等先進技術を駆使した最新装備を有する超空の要塞である、二人の技術中尉がB29内部の設備を見て降りると、僕の身近で米国の航空技術が、日本を凌ぎ、より遙かに進歩しているのに感嘆していた。足立工場長は熔接技術専門の分野で,特に関心の[B29]の熔接技術について,観察結果アメリカの進歩したスポット熔接に、鄰の電気熔接組で実験を重ねていたが,うまく行かず残念がっていました。
当時日本の飛行機胴体はまだ鋲で打ちこんでいたので技術の差が一見してわかる。
【37】極秘武器 [秋水]の仕事とテスト飛行を見る
秘密武器ロケット戦鬥機 [秋水]は東京湾に面した大広場の左翼の格納庫式組立工場でオレンジ色の三機(二機は機体だけで未完成)が並列に置かれ試作と檢查が行なわれていたので,厳しい警備をしており,絶対立入禁止で、一般の人は附近でも立ち寄ることは許せなかつた、秘密の一類工場に出入出きる”非常突破”の通行証を持つている僕も再チェックされる厳しさでした。
[秋水]の機首は円錐形で中央部分は円くふくれて、兜虫のような格好、全長 6メートル、全巾9・5メートルの小型飛行機でしたが,当時少年の僕に
は大きく見えた。主翼は大きく後退翼になっており、プロぺラと水平尾翼もなく,主翼、垂直尾翼とも全木製でした・胴体下面には離陸用ドリ―(このドリは離陸後高度約10メートルで投下回収再利用)と着陸用ソリが取付けられている。尾輪は空気夕イヤを用いていた。テスト飛行の数日前に、太く頑丈な脚支柱が持ち込まれ、熔接の欠陷で、緊急ガス熔接が求められた。この部品は離着陸時の重要部品で、元来電気熔接でなされていたが不良個所が発見された為,ガス熔接に切り換え、慎密に施どこし強度を増強する作業で、工場長が特に重視、工手
組長と立合の下で技術的に熔接方法を検討の後、指図で僕が助手として、指示通り二本の吹管で強力な火焔を調整し、予熱を与えながら、花方組長が自づから注意深く慎重に熔接を行い、熔接完成後早急に組立工場へ運ばれて行った。
[秋水]の仕事は[桜花]に代り、優先に取りこむように命令があり、迅速に加工処理された部品を、僕が責任をもつて現場 へとどけることになっていた。テスト飛行の行われる、20年7月7日当日定時間退勤前の午后4時頃、いつもどほり熔接完成部品を木箱に入れ,組立工場へ届けに行ったら檢查完了の[秋水]は既に追浜飛行場に牽引され、作業人員は大広場に出て、飛行場の上空を注意眺めていた。現場にいた班長が、僕から部品を受取ると「早く早く外に出てテスト飛行を見ろ!」、大広場に出て追浜飛行場の上空を見たら,突然ポンポンの大爆音が聞こえ、黒い煙と、急速に落下して行く[秋水]が瞬間的に見えただけで、熟練工はテスト失敗と言ひながら、組立工場に入って行った。
毎日の帰りは飛行場滑走路の南端から町屋寮にもどっていたので,夕暮に滑走路北端附近で落ちた[秋水]の処理している人の姿が見えた。テストパイロツト大塚大尉は救出されたが、重体で治療の甲斐なく,翌8日未明に殉職したと噂が流れ、工場の人達が惜んでいました。テスト飛行の数日前から工場内に陸軍の技術大尉の姿が見えた [秋水]は陸海軍の共同開発で海軍は機体、陸軍はエンジンの各担当で、それぞれ三菱重工業名古屋航空機製作所で設計,試作製造されていた。事故調査で燃料がタンク内に三分の一しか入れておらず為、甲液タンクの推進燃料(過酸化水素80%)が急上升加速のGにより後部に移動、前方にあった取り出し口に燃料がとだえて、主翼の乙液燃料(水化ヒドラジン30%、メタノール57%)と作用が出来ず,エンジンが止り墜落したと解明、改良を急めたが、終戦になり短かつた[秋水]の運命でした。
戦後化学技術研究所所長を務めていた、東大化学系出身の元海軍技術中尉谷口氏と知合になり、雑談で僕が[秋水]の話をしたら、彼はびっくり、曽て大船海軍燃料廠から秋田へ航空燃料の研究開発で秋水用ロケツ卜燃料は、少量でも皮膚に触れる水腫を生じ炎症を起し、且爆発の危険を帯び恐しいと語ってくれた。しかし[秋水]試作機が未完成にも拘わらず、陸海軍が大きな期待、で、20年3月までに155機、9月には1300機、21年3月までには3600機と,後先も見えず無鉄砲な大生産計劃していたので、僕等は[桜花]に引きつづき,手いつばいで [秋水] の部品熔接で毎日夜中まで残業、終戦まで続いた。
【38】ロヶツト戦鬥機[秋水]開発の経緯
昭和l9年6月16日 午前0時38分、中国の成都から飛び発つた、空の要塞「B29]47機が北九洲の八幡製鉄所、日本製鉄所小倉工場を空襲、大打擎をあたえた。しかし当時日本国土防衛で、1万メ一トル以上の高空で来襲する[B29]を迎擊出来る戦鬥機や高射砲がなく、軍当局は不安であせっていた。
当時最大射高9150メ-トルの88ミリの高射砲も主要産業都市の東京、横浜、名古屋に限定された場所に配備,一般地区には最大射高6710メート
ルの高射砲のみでした。サーチライトも直径1.525メートル、最大高7930メートル [B29]の高度に達することが出来なかつた。

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【秋水】唯一の復元機
(於名古屋三菱重工製作史料室)
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特に一番重要なのは一万メートル以上の高高度を飛ぶ空の要塞[B29]を迎撃出来るような戦鬥機が開発されていない点である。[B29]迎撃用として期待していた[雷電]も8000メートル迄の、上昇時間にも9分を要し、1万メ―トルに達するには30分以上かかり、やつと高度に達してもエンジン出力が半分になり機体が浮き、敵攻撃に無理があった。
故に3分45秒で12000メートル迄上昇、[B29]を撃墜出來るロケット戦鬥機 [秋水]に対する軍当局の切実なる期待は大きかつた。
ヨーロッパ戦線では同盟國ドイツが極秘でロケツト戦鬥機メツサーシュトMe163開発で日本にも明らかにしなか
つたが、日本は南洋占領国で得た戦略物資タングステン、錫・鉛等217トンを潜水艦にて供与したので、代賞としてドイツは日独両国間の協定に基づき、Mel63の資料提供と生産ライセンスを認可した。資料を二部づつ渡され二隻の潜水艦に分乗,何れか―隻無事日本に到達出来るようにと願いつつ、別別に出発させたがそれぞれ大西洋と台湾南方のバシ―海峡で敵米潜水艦に撃沈され、貴重な資料は悉く失われ、一足先飛行機で日本に帰ったドイツ駐在の巌谷英―技術中佐の持ち帰った資料も不完全なものでしたので、当局を大変失望させた。然し空技廠廠長和田操中将みづから主宰する秘密會議で議論百出でしたが「どんな困難であらうともやらなければならん!」と強き意向で開発することに結論づけた。そして空技廠会議の結論で、上部機関は陸海軍統―計劃の下で、全力をあげて開発に取り込むことになり、統―名称を[秋水]と名付けた。でも協議で海軍は Me163 の原設計に近い形に対して陸軍では完全な再設計の意見対立があり、結果的に妥協として、陸軍はエンジン、海軍は機体と、各主導にあたり、実務は三菱の関係部門が、主として着手することになつた。然し三菱側は水平尾翼と昇降舵もない無尾冀機は日本では前例のない飛行体で、必要な座標数値もない、この仕事を引き受けられずと難色を示したが、先ず空技廠で早速風洞試験で翼型や飛行性能の実験データを作ることになり、僅か一ケ月でそろえたので三菱側もすぐ同意し,且空技廠で試作された重、軽両種のグライダーによる試験で無尾翼[秋水]の操縦性と安定性が實証された。
[秋水]試作一号機は名古屋三菱第一工場から、横須賀の空技廠へ輸送され,そこで點檢、特にエンジンの一連の陸上テス卜を行なつた後,最初の飛行テス卜準備に取りかかり,1945年7月7日追浜飛行場の初飛行で離陸し,離陸用ドリ一の投棄に成功,急速に速度を高目,機首を45度上昇に引さ起したがその直後約400mの高度でエンジンが止まり降下,不運にも工事現場小屋にひっかかり反転して墜落し,機体は両翼をもぎ取られて大破し,テストパイロツト犬塚大尉は重傷,翌日朝惜しくも亡くなった。
8月15日朝には[秋水]の飛行テストは後二、三日で再開される予定でしたが,その日は天皇陛下の玉音放送で日本の無条件降伏となった。
[秋水]は最近名古屋の三菱重工の航空宇宙システム製作所で,唯一地下から堀り出した破損の一機を復元し史料室に展示してあり,2002年10月室長岡野允俊氏に案内され参観,58年ぶりに見る[秋水]の姿は,機体のオレンジ色が草色に塗りかへられていた以外は,全く昔と同じで,懷かしく非常に嬉しく昔の思い出を新たにした。
【39】玉音放送、考えてもみなかった敗戦
8月のはじめ米機[グラマン]と[P51] 断續的に横須賀地区を低空で空襲,8月7日の大本営発表で前日6日広島の被害を「新型爆弾を使用せるものの如きと詳細目下調査中」と発表。既に死者20数万人を,9日長崎に又新型爆弾が投下され,死者14万余人出し、10日有末精三中将を長とする仁科博士等調査団,広島に投下された爆弾は原子爆弾と政府に報告した。13日頃から町屋寮附近の陸地や海辺附近に、空から数多くの米軍の宣伝ビラがまかれ、拾って見るとポツダム宣言、日本国民に告ぐ等あり、萬―憲兵に見つけられたら大変なことで,ひどい目にあうことを恐れ、見た後すぐその場にすてた。 8月15日午前11時過ぎ工場内スピーカーから緊急通告で,すぐ仕事を止め、全員戦鬥帽をかぶり、早急飛行機部の海に面した大広場に集合した。正午君ガ代の後に玉音放送,雑音と声が小さく、且後側に整列していたので「朕深ク世界ノ・…堪へ難きを堪へ忍ビ難キを忍び‥・」と途切れに聞こえただけではっきりせず,放送終了後海軍夏服に戦鬥帽姿の廠長和田操中将が、司令台に上ると皆の敬礼を受け,切り出した言葉に「日本は負けた、厚木方面で蹶起ありと聞いてるが、つまらないもので負けたのは負けたのである。日本は科学で負けたのだ! 謙虛に受けとめ、今後日本復興の為に、尽力すべきである。」
簡潔明瞭な訓示でしたが,はっきりと敗戦を知らされた。科学で負けたと廠長の卒直な証言で、科学の重要性をしみじみ感じ、卒直で立派な偉い海軍の技術将官に敬服し,忘れられない。敬礼し解散して工場に戻ったら、皆沈鬱な顔つきで呆然としていた。
負けた! 晴天の霹靂である、皆がっかり失望した。翌日出勒すると作業停止、組長より各自の工具を整理し、ガスタンクのアセチレンガスを全部完全に放出するよう指示された。次の日になると海軍の軍服と毛布が、工場内に運ばれて配られた。僕は下土官服一着と、上質な純毛の高等官毛布一枚をもらったので記念として大事に台湾へ持ち返った。空技廠で受けた最高の土産でした。そして100数円の退職金をもらつた。当時僕の日給は1円10銭でしたので、約6ケ月分相当のようでした。アメリカ兵が日本に上陸して来るので、早く故郷に帰るよう命令され、日本人の方は全部一週間足らずで姿を消し,台湾の僕達は寮以外に帰る所がなく、寮に帰ると友達がもう台湾に帰れると喜んでいたが,僕は行先がどうなるか、不安で矛盾な心情でした。別れの日に、いつも僕等を湾チヤンと呼び差別し、且僕を殴り俺の強硬な反撃を受け、遁走した加藤君が、突然僕の傍に来て、 [惡かった、ゆるしてくれ]悔悟の言葉に、あやまり乍ら手を差し出し、固き握手をしたので、僕は気が清清して別れることが出来、格別な意義があった。
三日後毎日通っている、滑走路南端に、機体全身を白く塗った緑十字の一式陸攻があった。それは追浜飛行場から軍使を乗せ,20日マニラの連合国総司令部と折衝する、特別機であり、かように敗戦処理は橫須賀方面で着着と、進められていたのである。
緒戦の輝き戦果と勝利,日本帝国が戰爭で負けるとは、夢にも思わなかった。空技廠内で毎日スピ一力から流れる、聞き慣れたサトウハチロー作曲の[勝利の日まで]「国を舉げてのこの戰いに、湧いてくるくる、撃ちてし止まん,われら皆んな,力の限り勝利の日まで」。 本当に力の限り,献身的で日本の為に,全てを尽した。未来の技師、夢の航空士官、幻しの人生、国潰れ叶うこと出来ず失望したが,国破れ致し方が無い。
【40】終戦時にさ迷うみなし子
終戦で工場は閉鎖になり、アメりカ兵がすぐ上陸するとの噂さで、上司から寮の炊事のおばさんまで、全数何処かに姿を消し,無政府状態となり、食べるものもなく,炊事場をあさり、残された僅かな大豆を水煮で分けて食べた。そして寮附近の浜辺でたて貝等を拾い探し、空腹を満たした。僕は一人で空技廠内に入り、何か食べ物はないかとさがしまわったが,何もなくうろうろしていたら、残務整理で残っていた、施設部の主計中尉に見つけられ「何故まだ台湾
に帰らずにここで何をしているのか?」と聞かれたので、率直に食物が無く困っていると事情を話したら,事務所の中に入り海軍用の乾パン三袋を持ち出し僕の手にのせた。そして台北高等商業学校出身で家族がまだ台湾におり、残務処理がかたづけば、すぐ飛行機で台北に帰る,[皆さんも気をつけて、早く台湾に帰りなさい]と言葉を残し名前も告げてくれなかつた恩人で、今も心の中で、感謝している。寮に帰り乾パンを、仲間に分け、水をいつばい飲みながら食べたので満腹感でおいしかつた
幸い一週間足らずで、舎監林勇大尉が寮に見え、僕達の苦情を聞き,炊事のおばさんを呼び戻し、食事は部分的に解決した。輔導官吉増中尉も来られ、寮におった十数人を玄関前に集合,別れの言葉で「何れ日縁があれば、又南方の何処かであいましょう!体を大事に氣をつけて、台湾に帰って下さい。」僕に一枚の海軍軍服姿の寫真をくれた。裏側には岡本光麻呂(僕の日本名) ”幸福” と書かれ、吉増英郎とサインしていた。戦後復員局を通じ捜し求め30年ぶりに、新宿の高層ビルの島津製作所航空課で再会し,彼は旧日本海軍の技術幹部として海上自衛隊で対潜哨戒機の開発,造修業務担当,所長を経て退役していた。そして海上自衛隊下総航空工作所の小楯を、記念としてくれ非常に喜んだ。
【41】連合軍日本本土に上陸進駐
8月下旬から米艦隊が東京湾に入港、町屋寮からはつきり見えたので仲間と幾度も指おり数えて見たら、目のとどく所で50隻以上あり、夜は不夜城の如き輝いて美しく、強力な米國艦隊に驚いた。8月30日午后連合国最高司令官マッカーサが,厚木飛行場に着陸、9月2日ミゾーリ号艦上の降伏文書調印式で、重光外相が日本代表として行われた。
昨日まで、英鬼米鬼と貶した敵アメリ力軍が、大群の水陸兩用の上陸舟艇で敵前上陸さながら緊張の中で、横須賀方面の海上から上陸してきた。戦時中に米英兵は残虐非人道と教
えこまれた為、何か起るかと非常に不安であった。しかし反面好奇心で米兵てどんなものかと、見たかったので、町屋寮から出て、米軍の通りかかる大通りの大杉の後側から、こわごわと見ていた。米軍は始めて見る水陸両用舟艇を先頭に、ジープが大砲を牽引し、歩兵は銃剣のついた自動小銃に、銃丸をいっぱいつめている帯びや手榴弾を兩肩から交叉に掛け、全身武装で厳めしく注意深く、左右二列縦隊で行動をとり、横須賀方面から横浜東京方面に向つて、前進していた。その優れた先進的な、科学武器を有しているのを見て,なるほど廠長和田中将が言われたように、「日本は科学で負けたのである」日本軍は、落伍の三八式歩銃で、新式自動小銃や尖端武器と、豊富な物資を有するアメリカ兵を相手に,よく戦った勇敢極まる、日本軍隊の敢鬥精神につくづく感服して止まないのである。その日、皆が緊張硬い表情で、びくびく心配しながら見ていた、米軍上陸の行動も平安無事で、ほつとした。
【42】戦後混乱の日本で復員船を待つ
米軍本土上陸後の9月下旬に、追浜の空技廠町屋寮から、厚木飛行場近くの大和高座寮に集結され、台南の同郷と一緒に同じ宿舎にいた。厚木の上空を頻繁に離着陸する多種多様な米機は、日本を遙かに凌ぐ数量にびっくり、これでは日本は負けるのは當然と思ったのである。敗戦時海外の日本軍人、軍属、民間人約600余万人の引き揚げと、日本国内から台湾に帰還させる軍人、軍属、学生、民間人は船舶、その間の食糧、医薬品は不足で米軍に依存せざるを得なかったので、年末までに船の予定がなく、帰国することが出来なかつた。
その間戦時中休暇でよく遊びに行って来た、東京の銀座、新宿、上野、浅草、横浜の南京町等地に行くと見渡す限り戦災の焼け跡で、人人は雨露をしのぐ為に、焼け残りのトタン板で作った貧弱な假小屋、バラツク、壕舎、食糧不足等極度の窮乏にあえぐ、逼迫する生活で、国民は失望的な様相を呈しながらも人人は、たくましく生活していた。
銀座四丁目、新橋、新宿駅前等地の焼け跡にはずらりと露店や、地上に並べ陳列している堀り出し商品や、横流しの軍需物資が飛ぶように売れていた。米兵からチェコレートや煙草、缶詰等食物を買ふのに、片言英語が必要なので誠文堂より発行された"英会話手帳"がべストセラーで360万冊賣れたと記録されている。
10月に戦後第一作の松竹映画 、<そよかぜ> の主題歌で並木路子が歌う、輕快な<リンゴの歌>が大流行で,戦時中の固苦しぃ歌謡、軍歌と異なり,明るくて気が軽く、 敗戦で失望し悲観中の日本国民に希望を与えた。仲間達と共に、手をたたきながら朗らかに「赤きリンゴに唇よせて,だまってみている青い空」とよく歌った。
ある日東京駅でフイリツピンから引揚げ船で、浦賀に上陸祖国日本に帰ったばかりの復員兵隊が,米軍より支給された服の背中に< P W >と記るされていたので,群衆の中に「俘虜が帰って来た」と侮辱され、くやし涙をポロポロ流していた悲傷
の有様は、何よりにも残酷で無情とつくづく感じました。
【43】終戦後初の新年を迎へる
昭和2l年の正月は、門松やしめ飾りはほとんどなく、元旦の天皇詔書で「現人神にあらず」と自から神格を否定、各新聞紙に一斉掲載され報道された。今迄学校教育では、万世一系の神,天皇に忠君愛国と教えられた、間違いだらけの歷史や思想は、とても割り切れないものがあったが,敗戦の事實で根本的に一変したのである。
戦爭の恐怖と空襲の恐ろしさに脅えていた昨年の正月とは全く異なり,今年の平和なお正月は防空頭巾をかぶっている姿も見えず,服装も堅い戦時中の身なりから身軽な軽装と変っていました。
人人の表情も明るく見え始め,元旦の賑いで東京、銀座、新宿に行く各電車は滿員で非常な混みあい、買出しの人波で大混雜でした。露店にはお正月の雜煮も出まわり,久しぶりにおいしく食べることが出来た。田舎からの出稼ぎ農村おばさんも,大きなふろしきで農産物やリンゴ、二十世紀梨等果物を担ぎ路上に並べ,生活費を稼いでいました。
進駐軍の米兵もあちこちで大勢ぶらぶら、異樣な目つきで日本正月の有樣を吟味していたが,無邪気な子供達は米兵に近より,チヨコレ一卜等物乞い,大人達はシガレツ卜や食物を購入している姿は戦後独特な風貌でした。